あれは、酒場の片隅で友人に聞いた話だった。
店は平日の遅い時間で、客もまばらだった。壁際の席で、氷の溶けかけた焼酎を前に、友人は唐突に名前を口にした。
N。
それだけで、なぜか胸の奥が冷えた。理由は分からない。ただ、その音の並びが、場にそぐわない気がした。
Nは営業マンだった。人当たりがよく、言葉が軽い。約束を守るかどうかは別として、相手に「大丈夫だ」と思わせるのが異様に上手い男だったという。
友人が彼と深く関わったのは、数年前のことらしい。
当時、Nは交際していた女性から、少しずつ金を引き出していた。最初は立て替え、次に短期の貸し借り、やがて返済の話は曖昧になり、気づけば彼女の貯金はほとんど残っていなかった。問い詰められる前に、Nは一方的に関係を切った。連絡先も変え、職場も移った。
「どうせ終わった話だ」
そう言っていたらしい。
終わっていなかったのは、その直後から起きた出来事だった。
現金取引のあと、会社へ戻る前に、金が減っている。
一度や二度ではない。毎回、必ず、同じように。
封筒は破られていない。鍵付きの小型金庫にも異常はない。財布から抜かれた形跡もない。それでも、数万円単位で、確実に消えている。
最初は数え間違いだと処理された。次は、気のせいで済まされた。だが三度目、四度目になると、そうはいかなかった。
不足分は、Nが自腹で補填した。
会社は淡々としていた。現金を扱う以上、理由はどうあれ、数字が合わなければ責任は本人にある。経理には未収金として記録され、給料から天引きされるようになった。
友人が言うには、その頃からNの様子が変わった。
話し方は以前と同じだが、視線が定まらない。机の引き出しを何度も開け閉めし、財布を頻繁に確認する。昼休みに外へ出ても、戻ってくると必ず金を数えていたという。
金は減り続けた。
理由は分からないまま、減り方だけが一定だった。
借金が増え、顔色が悪くなり、煙草の本数も減った。金がないというより、金が信用できなくなっているように見えたらしい。
そんな折、大口の現金取引が舞い込んだ。数百万円単位の話だった。
Nは珍しく強く拒んだという。
「自分には無理だ」
理由は言わなかった。だが取引先の社長が名指しでNを指定し、断る選択肢はなかった。
Nは一つの方法を思いつく。
後輩を同行させ、現金はすべて後輩に持たせる。自分は別の車で先回りし、書類のやり取りだけを担当する。金に触れなければ、問題は起きない。少なくとも、そう考えた。
当日、取引は滞りなく終わった。
しかし帰社途中、後輩が自転車と接触事故を起こした。大事には至らなかったが、警察と相手の保護者が到着するまで、現場を離れられない。会社からは何度も電話が入り、現金の回収を急かされた。
結局、Nが現金を引き取ることになった。
彼は札束を鞄に入れなかった。
ダッシュボードの上に並べた。
視界に入れていれば大丈夫だと、思ったのかもしれない。
午後の光を受けた紙幣は、不自然なほど白く見えたという。
友人は、その光景だけが妙に頭から離れないと言っていた。
Nは会社に戻らなかった。
カーブを曲がり損ね、ガードレールを突き破り、崖下へ転落した。救急隊が到着したとき、彼はすでに息をしていなかった。
車内から、現金は一枚も見つからなかった。
事故の処理が一段落した翌週、友人たちはNのデスクを整理した。
引き出しを開け、書類をまとめ、私物を箱に詰める。その最中、最下段の引き出しで手が止まった。
中には現金が積まれていた。
封筒にも入っていない札束が、雑に、しかし量だけは異様に多く。新札と古い札が混じり、湿った紙の匂いがした。
端に茶色い染みがいくつもあったが、それが何かを示しているのかどうか、誰にも分からなかった。
金額は数えなかったという。
数えれば、何かが確定してしまう気がしたからだと、友人は言った。
会社は警察に届けた。
だが、事故で消えた金と、この現金が同じものかどうかは、確認されなかった。
友人は、酒を一口飲んでから、小さく言った。
「あれ、誰の金だったんだろうな」
私は答えなかった。
ただ、ダッシュボードに並べられた札束と、それを見下ろすNの視線を想像していた。
あのとき、彼が見ていたのは金だったのか、それとも、自分の現実が少しずつずれていく感覚だったのか。
今でも、現金を数えるとき、ふと指が止まることがある。
減っていないかではない。
そこにあるはずだと、なぜか確信できなくなる瞬間がある。
[出典:427 :本当にあった怖い名無し:2014/01/19(日) 23:51:53.97 ID:rhdK3sYo0]