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生活していた女 rw+3,013-0119

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二十歳の春の朝だった。

前の晩は友人と遅くまで電話をしていて、頭がまだぼんやりしていた。庭に出ると、陽射しは柔らかく、風だけが冷たかった。ホースを握り、しゃらしゃらと水を撒いた瞬間、足元に何かが絡みついた。

次の瞬間、体が前に投げ出され、胸が硬いものにぶつかった。植木鉢を載せていた鉄の台だった。鈍い音。肺が潰れるような衝撃。声は出ず、膝をついたまま息が吸えない。脂汗が背中を流れ、視界が薄く曇っていく。世界が、ゆっくり後ろへ滑っていった。

目を開けたとき、窓から差し込む光は夕方の色をしていた。だが、そこは自分の部屋ではなかった。畳の匂いもない。甘くも乾いた、知らない家の空気だった。起き上がると、着ている服も見覚えがない。柔らかな部屋着。広いリビングのソファに座らされていた。

「……え」

声は掠れていた。

廊下の奥で足音がした。小さな女の子が、ぬいぐるみを抱えて現れる。迷いのない目で、当然のように言った。

「いっしょに遊ぼ」

頭が真っ白になる。とっさに口から出た。

「……ママは?」

少女は少し笑って、「ママもね、遊びたいって」

胸の奥で警鐘が鳴り続けていた。夢なのか、事故なのか、それとも。家の中を確かめようとして、少女と手をつないだ。長い廊下。妙に広い台所。洗面所に入り、鏡を見た。

そこに映っていたのは、私の知っている私ではなかった。金に近い茶髪も、張りのある顔もない。黒髪を緩くまとめ、頬のこけた女が立っている。目尻の皺。触れると、確かな皮膚の感触が返ってきた。

壁のカレンダーで、息が止まった。庭で水を撒いていた日から、ちょうど五年後の日付。

少女は、私の娘だった。

震える手で実家に電話をかけた。母の声はいつも通りで、「昨日来たばっかりじゃないの」と言った。受話器を握ったまま、力が抜けた。

夕方、夫だと名乗る男が帰ってきた。落ち着いた声で、自然に私の名を呼ぶ。外で食事をしようと言われ、断れなかった。彼は、私の癖のような仕草を何度も気遣った。

後で知ったことだが、この五年間、私は普通に暮らしていたらしい。笑い、出かけ、写真を撮り、帳面に数字を書き込んでいた。その痕跡だけが、きちんと残っている。記憶だけが、抜け落ちている。誰かが私の体を使って、生きていたように。

一年が過ぎ、生活は形になった。娘は、今では私にとって最も大切な存在だ。夫にも感謝している。だが、時折、背中を冷たいものが撫でる。

あの五年間、私の中にいたのは誰だったのか。彼女はどこへ行ったのか。それとも、まだいるのか。

夜、寝室の鏡を見るたびに思う。映る私が、ほんの一瞬だけ笑っているように見える。私が笑ったのではない。あの五年間を生きていた女が、そうしているのだ。

今も家族と暮らしている。だが胸の奥には、あの日と同じ鈍い痛みが残っている。次に目を開けたとき、ここがどこなのか分からなくなる。その予感だけが、消えない。

[出典:622 :おさかなくわえた名無しさん:2013/06/25(火) 10:22:00.84 ID:Ev/RzCL1]

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