二十歳の春の朝だった。
前の晩は遅くまで友達と電話をしていたせいで、少し眠たげなまま庭に出た。
陽はやわらかく、まだ冷たい風が頬をなでていた。
片手にホースを持ち、しゃらしゃらと水を撒く。
その瞬間だった。足に絡みつくような感触。
気づいたときには、体が前に倒れ、胸が何か硬い台にぶつかった。
植木鉢を置く鉄の台。
鈍い音と、肺を締めつける衝撃。
声は出ず、地面に膝をつき、息も吸えないまま脂汗が滲んだ。
視界がかすみ、音が遠のき、世界がぬるりと背後に滑っていく感覚。
次に目を開けたとき、窓から射し込む光は夕暮れの色になっていた。
けれど、そこは自分の部屋ではなかった。
畳の匂いもしない。甘ったるくも乾いた、知らない家の空気。
体を起こすと、着ている服も見知らぬもの――やわらかな部屋着。
広いリビングのソファに腰かけていた。
「……え?」
声は掠れて、自分でも頼りない響きに聞こえた。
足音。
廊下の向こうから、小さな女の子がぬいぐるみを抱いてやって来る。
つぶらな瞳で、まるで当然のように言った。
「いっしょに遊ぼ」
頭が真っ白になった。
とりあえず、口から出た言葉は「……ママは?」
少女は笑って、「ママもいっしょに遊びたいって」
頭の奥で、警鐘のような音が鳴り続ける。
誘拐? 悪い夢? 混乱のまま、家の中を確かめようと思い、少女と手をつないだ。
長い廊下、やけに広い台所。
洗面所に入り、ふと鏡が目に入った。
そこに映っていたのは、自分の知っている自分ではなかった。
ギャルっぽい金髪に近い茶髪も、元気そうな顔つきも消え、
黒髪をゆるくまとめた痩せた女が立っていた。
目尻の皺。頬のこけ具合。
鏡を触っても、それはガラス越しの幻ではない。肌の感触が返ってくる。
壁のカレンダーを見て、息が止まった。
庭で水やりをしていた日から、きっかり五年後の今日。
少女は――私の娘だった。
動悸が胸を打ち続ける中、実家に電話をかけた。
母の声は普通で、「昨日来たばっかりじゃないの」と言う。
受話器を握る手が震え、そのまま放り出してしまった。
夕方、夫と名乗る男が帰ってきた。
背は高く、落ち着いた声で私の名を呼ぶ。
外で食事をしようと誘われ、流されるように応じた。
席についても、私は彼が何者かを知らない。
それでも彼は、私のわずかな仕草の変化まで気遣ってくる。
後からわかったことだが、この五年間、私は恋をし、結婚し、子供を産み、
職を転々としながらも普通の生活を送っていたらしい。
友人と遊び、笑い、家計簿もきちんとつけ、アルバムには笑顔の私がいる。
ただ、その間の記憶が一切ない。
まるで、誰かが私の体を借りて過ごしていたように。
一年が過ぎ、生活には慣れた。
娘は今、私にとって何よりも愛しい存在だ。
夫には感謝もしている。
だが、時折、ふと恐怖が背筋を這い上がる瞬間がある。
あの五年間、私の中にいた「私」は何者だったのか。
彼女は今も、どこかで息をひそめて、
再び私を押しのける機会を待っているのではないか。
夜、寝室の鏡を見るたびに、
そこに映る自分が、ほんのわずかに笑っている気がしてならない。
私が笑っているのではなく――あの、五年間を生きた女が、だ。
今も家族と暮らしている。
しかし、心の奥底で、
あの日と同じ胸の痛みが、再びすべてを奪うのではないかという恐怖が消えない。
目覚めたとき、次にここがどこなのか、誰が隣にいるのか。
それを知るのは、きっとまた……五年後なのだろう。
[出典:622 :おさかなくわえた名無しさん:2013/06/25(火) 10:22:00.84 ID:Ev/RzCL1]