忘れもしない。小学三年の夏休みのことだった。
盆が近づいたある晩、父が母に「明日、連れて行く」と言った。寝る前の居間で、父の声はいつもより低く、母は何も聞き返さず、私の着替えを無言で鞄に詰めていた。
どこへ行くのかと聞くと、父は一瞬だけ考えるような間を置き、「明日になれば分かる。お父さんの実家だ。二、三日泊まる」と言った。
生まれて初めての外泊だった。布団に入ってからも胸が高鳴り、暗い天井を見つめたまま、なかなか眠れなかった。
翌日、長い山道を越え、父の実家に着いたのは夕方だった。車を降りた瞬間、外の世界から切り離されたような感覚に襲われた。すり鉢状の地形。四方を山に囲まれ、田んぼと畑が夕陽を吸い込んで赤黒く沈んでいた。
夜になると外灯はほとんど役に立たず、闇がそのまま降りてくる。都会で育った私には、「何もない」というより、「何かが満ちている」ように感じられ、落ち着かなかった。
祖父母は笑顔で迎えてくれ、夕食を終えると、私は畳の上でそのまま眠り込んだ。
翌朝、真君と会った。二つ年上の遠縁の親戚で、背中には大きなリュックを背負い、首から双眼鏡を下げていた。彼はそれを「冒険道具」と呼び、得意げだった。すぐに私の遊び相手になり、昼前にはすっかり打ち解けていた。
庭先で遊んでいると、祖父母が声をかけてきた。
「遠くへ行くな。山には登るな」
祖父は真顔でそう言った。理由を聞くと、「道を知らん子どもが入れば戻れん」とだけ答えた。祖母は少し声を落とし、「盆はな、ご先祖様が山から帰ってくる。迎える準備を家でせにゃならん」と付け足した。
私は古い言い伝えだと思った。真君も同じだった。
昼間は川で遊び、スイカを冷やした。笑い声が山に吸い込まれていくのが面白く、時間の感覚が薄れていった。
夕方、帰り道で、山腹が一瞬、光った。反射するような、瞬きのような光だった。
「今の見た?」と私が言うと、真君は双眼鏡を取り出し、「ちょっと見るだけや」と言った。
祖父母の言葉が頭をよぎり、私は必死に止めた。もう暗くなるし、行ったら怒られると。だが真君は笑って、「迷信や」と言い、鳥居のある小道へ足を向けた。
私は道を覚えていなかった。置いて行かれるのが怖くて、後を追った。
鳥居をくぐった瞬間、空気が変わった。さっきまで鳴いていた蝉の声が途切れ、山が息を潜めたように静まり返った。木々がこちらを見下ろしている気がして、背中がひりついた。
真君は双眼鏡を覗き込み、「あれや」と言った。
次の瞬間、彼の体が硬直した。手が震え、双眼鏡が地面に落ちた。鼻から血が垂れ、顔が引き攣り、喉の奥から意味の分からない音が漏れた。
私は名前を呼んだが、返事はなかった。よだれを垂らし、目の焦点が合わないその顔は、もう知っている真君ではなかった。
恐怖に背中を押され、私は走った。転び、鳥居を抜け、膝から血を流しながら、ただ下へ下へと逃げた。途中で近所の人に見つかり、背負われて家に戻った。
泣きながら山のことを話すと、大人たちの顔色が変わった。
夜、祖父と父と、真君の父が松明を持って山へ向かった。私は家に残されると思っていたが、祖父に腕を掴まれ、連れて行かれた。
「喋るな。後ろを見るな」
それだけ言われた。
山の中で見つけた真君は、地面に横たわっていた。髪は白く変わり、目は白目を剥いていた。大人たちが抱き起こし、私は落ちていた双眼鏡を拾った。
そのとき、背後から声がした。
「おーい……」
抑揚のない、誰のものとも分からない声だった。振り向きたい衝動に、歯を食いしばって耐えた。
家に戻ると、私は井戸水を浴びせられ、白い布を被せられた。大人たちは慌ただしく動き、意味の分からない言葉を唱えていた。
父は私と同じ部屋に入り、窓の隙間から山を見張った。双眼鏡を手にして。
しばらくして、闇の中に、光るものが動いた。遠近感が狂い、距離が分からなかった。近づいているのか、離れているのかも判断できなかった。
父の息が詰まる音が聞こえた。
私は見なかった。見ないようにしていた。だが、視界の端で、何かが回っているのは分かった。人の形をしているようで、していないもの。上下の感覚が裏返り、顔の向きが揃っていない影。
頭の奥が灼けるように痛み、意識が途切れた。
目を覚ますと、車の中だった。黒い袋に包まれ、外から何かが叩く音がしていた。どこかに連れて行かれ、経を唱える声に囲まれたところまでしか覚えていない。
それから数年後、真君は戻ってきた。笑ってはいたが、髪は白いままだった。
今も盆が近づくと、父は決まって口数が少なくなる。あの双眼鏡は、捨てたはずなのに、時々、家のどこかで金属の触れ合う音がする。
私は今でも、遠くの光を、直接見ることができない。
(了)