中学時代の同級生から聞いた話だ。
彼女自身の体験というより、今でも誰にもはっきり語れずにいる「関わってしまった記憶」だと言ったほうが近い。
学生の頃、彼女は生活費を稼ぐために夜のパブで働いていた。時給は千四百円。決して楽ではないが、背に腹は代えられない時期だったらしい。
その店に、毎晩のように通ってくる男がいた。間宮と名乗り、年齢は三十代半ば。派手さはなく、言葉遣いは丁寧で、誰に対しても腰が低い。恋愛経験はほとんどなく、仕事一筋で生きてきたような雰囲気だったという。
店では親しみを込めて「マーちゃん」と呼ばれていた。
飲み物を振る舞い、女の子たちの話を最後まで聞き、否定も口出しもしない。害がなく、むしろ安心する存在。場の空気を和らげる人間だった。
そんなマーちゃんが、いつも視線を向けていた女性がいた。
恵子という名で、年齢は少し上。離婚歴があり、子どもが二人いた。元夫との関係は周囲も知っているほど荒れていて、嫉妬と暴力から逃げるようにして店に身を寄せていたという。
「怖い」「どこかに行きたい」
彼女は冗談めかしながらも、時折そんな言葉を漏らしていた。

やがて二人は入籍した。
店では小さな祝いの席が設けられ、誰もがほっとした顔をした。ようやく居場所を得たのだと、皆が思った。
彼女自身も、その結婚を疑わなかった。マーちゃんは優しく、恵子は穏やかに笑っていた。
それから間もなく、彼女は卒業を控えて店を辞めた。
昼の仕事に就き、生活のリズムを整え始めた頃、新聞の死亡欄に恵子の名前を見つけた。
事故死。
山中で遺体が発見されたとだけ書かれていた。
胸がざわついた。
事故という言葉が、どうしても腑に落ちなかった。
彼女は、元夫の存在を思い出していた。過去に聞いた暴力の話。背骨にまで及んだ傷。あの人が関わっているのではないか。そう考えるほうが自然に思えた。
マーちゃんに連絡を取った。
声は弱々しく、食事も喉を通らないと言っていた。
「警察に話そう。事故じゃない。事件だと思う」
そう告げると、彼は少し間を置いて「そうだね。頼む」と答えた。
彼女は車に乗り、彼の運転で向かった。
気づけば町外れを抜け、廃棄場の脇を通り、森のほうへ入っていった。
車が止まり、エンジンが切られる。
空気が変わった。
鳥の声も、風の音も遠い。
「ここで話そうか」
そう言われた瞬間、胸が早鐘を打った。
冗談を言った。どうでもいい話を続けた。
二十分ほど、意味のない会話が流れた。
彼は穏やかで、怒りも取り乱しも見せなかった。ただ静かに、淡々と話していた。
その間、彼は恵子の話をした。
顔色が変わっていたこと。
紫がかって、腫れていたこと。
形が崩れていたこと。
彼女は聞きながら、なぜそんなことを知っているのかを考えないようにした。
悲しみのせいだと思おうとした。
やがて車は町へ戻り、二人は別れた。
それきり会うことはなかった。
何度か連絡は来たが、理由のわからない胸騒ぎがして、応じなかった。
冬になり、元の店のママから電話があった。
「あの男、捕まったねぇ」
彼女は即座に元夫の顔を思い浮かべた。
「やっぱり、あの人ですよね」
「違うよ」
ママは淡々と続けた。
「捕まったのは、マーちゃん」
その場に崩れ落ち、立てなくなったという。
詳しいことは語られなかった。
何がどう裁かれたのか。誰が何をしたのか。
彼女はそれを聞こうとしなかった。
ただ、思い返すのは、あの森の時間だけだ。
何も起きなかった二十分。
起きなかったからこそ、今でもどこかで続いている気がする時間。
最後に店で見た光景を、彼女は覚えている。
恵子の隣に座り、寄り添うように微笑むマーちゃん。
いつもと変わらない、優しい顔だった。
誰も疑わなかった。
あの時、車に乗った自分自身でさえ。
[出典:2006/08/28(月) 00:35:25 ID:isTFzW+T0]