これは、高校の時の同級生から聞いた話だ。
彼の故郷では、独特な葬式の風習が今も残っているらしい。
その話は、彼の祖父、通称「爺」が亡くなった時のことだったという。爺は柔道五段、日焼けした顔にがっしりとした体躯の持ち主で、若い頃の彼を何度も鍛え上げた厳格な人だったらしい。彼は憎まれ口を叩きながらも、そんな爺を心から尊敬していたそうだ。
爺が亡くなったのは平成13年(2001年)の7月の終わり。彼の村では葬儀の通夜が特別で、特に血縁者の男たちが「死守り」という役目を担う風習があった。死守りとは、死者を守り、魂を喰らおうとする「鬼」や「何か」を退ける役割だという。
四方が襖で囲まれた部屋に死者を安置し、その周囲を四人が背を向けて座る。そして、それぞれのそばには白木の柄の小刀を置く。死守りには三つの厳しい禁忌があるという。
- 何があっても後ろを振り向いてはならない。
- 誰に名を呼ばれても応じてはならない。
- 小刀を完全に抜き放ってはならない。
彼は祖母から「お前は爺の若い頃に瓜二つだ。継いだ血が濃い」と言われ、丑寅(北東)の方角に座るよう命じられた。彼にとっては、厳格だった爺のために役目を果たしたいという思いが強かった。
部屋の中は真っ暗で、ひんやりと冷たく、線香の匂いが漂っていた。十畳ほどの部屋で、死者を囲む死守りたちは緊張に包まれていた。襖の向こうから祖母が数珠をこする音だけが響く。その静けさは妙に不安を煽るものだったという。
夜が更け、暗闇の中で何時間が過ぎたのか、彼にはわからなかった。突然、目の前の襖が「ガタン」と大きな音を立てて揺れた。その音に心臓が跳ね上がる。さらに彼のすぐ後ろから、「ごそり」という何かの動く音が聞こえてきた。恐怖が体を貫いた。
暗闇に目を凝らしても、何も見えない。虫や蛙の鳴き声がすっかり止み、静寂が部屋を支配していた。
そのうち、「抜け」と声がした。だがそれは、叔父たちや母の声ではなく、ましてや爺の声でもなかった。彼の耳元で囁くように響いたその声は、誰とも知れない異質なものだったという。
彼は震える手で小刀を半分ほど抜いた。禁忌の一つである「完全に抜いてはならない」という掟を、頭の隅で必死に守ろうとしていた。正面の襖が再び「ガン!」と揺れた。その音の迫力は部屋全体に響き渡り、襖が外れるのではないかと錯覚するほどだった。
次第に後ろの音も消え、やがてまた虫や蛙の声が戻ってきた。祖母が鈴を鳴らし、夜が明けたことを知らせるまで、彼らはそのまま動けなかった。死守り全員がその場に倒れ込むように前につんのめり、眠ってしまったらしい。
目を覚ますと祖母が泣きながら、彼の手を握り「よう頑張った」と繰り返したという。そして振り返ると、爺の掛け布団が少し崩れ、口がわずかに開いていた。
後に、祖母はこう語ったという。「お前は爺の血を継いでいる。だから、鬼に持って行かれずに済んだ」と。
しかし、彼には一つだけ腑に落ちないことがあった。あの時、彼に「抜け」と囁いた声は一体誰だったのか。そして、それが助けだったのか、あるいは罠だったのか――。
[出典:2006/05/28(日) 03:21:00 ID:2RhLowUU0]