これは不動産業に長く携わってきたSさんから直接聞いた話である。
舞台は埼玉県郊外に造成された二十棟の新築分譲地だった。最寄り駅からは徒歩二十分ほど。周囲は田畑が点在し、数年もすれば住宅が埋まりそうな、ごく平凡な立地である。それにもかかわらず、販売開始から三年が経過しても、いくつかの区画だけが埋まらなかった。
問題とされたのは「N」「Q」「R」と呼ばれる並びの区画、そして最初に売れた「M区画」だった。いずれも敷延物件で、旗竿地に近い形状をしている。価格は抑えられていたが、それでも買い手はつきにくい。だが売れない理由は、立地や形状だけではなかった。
M区画に入居した一家の主人は、半年後に二階の納戸で首を吊った。警察の発表は「個人的事情による自殺」。それ以上の説明はなかった。だがその後、L宅で原因不明の出火があり、I宅では夫婦が短期間で離婚、J宅の主人は帰宅途中に交通事故で死亡した。偶然と言えば偶然だが、営業担当者の間では「続きすぎている」と囁かれていた。
さらに奇妙なのは、亡くなった家主たちがいずれも二階の納戸を気にしていたという点だった。収納として使うには狭く、窓も小さい。にもかかわらず、全員が一度は納戸の改装を検討していたという話が残っている。壁を抜く、棚を増設する、照明を変える。具体的な計画まで立てていた者もいたらしい。
販売委託は複数の不動産会社を渡り歩き、最終的にSさんの会社に回ってきた。担当はSさんと若手の佐藤君。再販となったM区画の現地確認が最初の仕事だった。
玄関を開けた瞬間、佐藤君は足を止めた。
「冷えてませんか」
エアコンは切れている。窓も閉まっている。それでも空気がひやりとしていた。冬ではない。むしろ蒸し暑い時期だった。にもかかわらず、室内だけが妙に乾いている。金属の粉を舐めたような、薄い鉄臭さが漂っていたという。
Sさんが靴を脱ぎ、上がろうとした時だった。階段の上から、短く澄んだ音が落ちてきた。
「キン」
ガラスの割れる音ではない。鈴の余韻もない。細い金属線を弾いたような、乾いた一撃音だった。
「なんだ」
Sさんが顔を上げると、佐藤君は玄関に立ったまま青ざめていた。
「ここ、本当にやばいです。これ以上は無理です」
理由を問うと、「上に何人かいます」と小声で言った。姿は見えないが、気配が重なっている、と。
Sさんは一人で階段に足をかけた。三段目を踏んだ瞬間、再び「キン」と鳴る。二段目でも四段目でも鳴らない。三段目だけが、わずかに軋むように冷たかった。
二階の廊下は暗く、納戸の扉が半開きになっていた。中にはスーツ姿の男が立っている。
四十代半ばほど。整えられた髪、営業職のような落ち着いた顔立ち。
「お疲れ様です。清掃に来ていました」
男はそう言って微笑んだ。だが手ぶらだった。清掃用具も脚立もない。名刺も差し出さない。
Sさんは思わず名前を尋ねた。
「田中と申します」
どこかで聞いたような、ありふれた名だった。短い会話を交わす間、男は一歩も動かなかった。視線は常に納戸の天井付近を向いていたという。
用件を終え、Sさんが階段を下りる。三段目に足をかけた瞬間、三度目の「キン」が鳴った。背後で、空気がわずかに震えた気がした。
玄関に戻ると、佐藤君が顔色を失っていた。
「さっき、誰と話してました」
「清掃業者の田中さんがいた」
その答えに、佐藤君はかすれた声で言った。
「入った時、玄関に靴は一足もなかったです。二階、誰もいませんでした」
そして震えながら続けた。
踊り場に黒い影がいくつも浮かび上がり、三段目の位置で一瞬止まる。それから壁の中へ吸い込まれていく。その消える瞬間に、あの「キン」という音が鳴るのだ、と。
Sさんはそれ以上確認せず、すぐに車へ戻った。エンジンをかけた瞬間、バックミラーの奥で二階の窓がわずかに揺れた気がしたが、振り返らなかった。
帰社後、売主に田中という清掃業者の在籍を確認した。返ってきた答えは、想定外だった。
田中は二か月前、交通事故で死亡している。しかも事故が起きたのは八月三日午後三時。M区画の家主が納戸で首を吊ったのと、同じ日付、同じ時刻だった。
さらに調べると、田中は最初の自殺後、遺品整理と清掃を担当していたという。納戸の梁に残った金具を外したのも彼だった。
金具を外す際、細い金属棒を叩き、梁を打ち抜いたと聞く。その作業音が、短く澄んだ「キン」という音だったらしい。
それ以降、M区画は売れないままになった。N、Q、Rも同様である。契約直前で破談になるケースが続き、理由を尋ねても「なんとなく気が進まない」と曖昧な返答しか返ってこない。
Sさんは最終的に担当を外れた。だが今でも階段を上る時、三段目に足をかける瞬間、無意識に呼吸を止める癖が抜けないという。
踏んだ覚えのない三段目で、あの乾いた金属音が鳴る気がしてならないからだ。
そして彼は言った。
「音だけは、今も忘れられない。姿は見間違いで済む。でも音は、身体の奥に残るんです」
それが、この分譲地に残った唯一の証拠なのかもしれない。
(了)
旧題:埼玉のいわくつき敷延物件/2026年02月17日(火)改題リライト
[出典:850本当にあった怖い名無し 2013/10/29(火) 16:32:18.81 ID:Q/uQmGXT0]