これは、私が小学校2年生の頃に体験した事象である。
当時、父は頻繁に出張してビジネスホテルに滞在していた。夜間には、父は外出して飲みに行くことが多く、家庭に連絡をすることは極めて稀であった。しかし、その夜、父が深夜に自宅に電話をかけてきたのは非常に珍しい出来事であった。
時刻は深夜11時を過ぎていた。電話に応じた母は驚いた様子を見せたが、それ以上に驚かされたのは父の要件であった。
「仏壇にある、不動明王の真言を教えてくれ」
母は一瞬戸惑いを見せながらも、私を呼び、仏壇の引き出しから経文の書かれた紙を持ってこさせた。母はその紙を手に取り、真言を一言ずつ電話口で父に伝えた。父は何度も感謝の意を示し、電話を切った。
翌朝、父が出張先から帰宅したが、その顔には疲労が色濃く刻まれていた。「昨晩は本当にひどい目に遭った」と、父は沈んだ口調で語り始めた。
夢の中で、父は濃い霧が立ち込める薄暗い戦場に立っていた。周囲には古びた鎧を身にまとった武者たちが無言で父を睨みつけていた。彼らの顔は焦点が定まらず、虚ろな目でありながらも不気味に光り、父を注視していた。そして、突然、その武者たちが一斉に襲いかかってきた。逃げ場はなく、父は必死に走りながら逃げ道を探したが、どこにも見つからず、やがて追い詰められてしまった。
絶体絶命の瞬間、父は隣に何かの気配を感じた。振り向くと、そこには古びた鎧を着た人物が立っており、その人物は黙したまま一本の剣を差し出してきた。その剣は異様なまでに重かったが、握った瞬間、父は「この剣なら武者たちを倒せる」という確信が湧き上がった。そして次々と襲いかかる鎧武者たちを斬り捨てた。武者たちは斬られる度に煙のように消え去り、やがて辺りには静寂が訪れた。
その時、父は「これは不動明王の剣だ」と直感し、強烈な衝動に駆られて不動明王の真言を唱えなければならないと感じた。目が覚めた父は、全身汗にまみれ、心臓が激しく鼓動していた。ホテルの部屋は異様に静まり返り、冷たい視線を感じるような重苦しさに包まれており、何か見えない存在が部屋の隅から見つめているような感覚に襲われたという。恐怖に突き動かされた父は急ぎ公衆電話を探し、家に連絡を入れた。母から教わった真言を何度も唱えながら、ようやく朝を迎えることができたそうだ。
翌朝、ホテルをチェックアウトする際、父はフロントのスタッフにそれとなく尋ねた。
「あの…この辺り、かつて何かあった場所なんでしょうか?」
スタッフは淡々と答えた。
「ええ、こちらは昔の古戦場の跡地で、多くの武士が命を落とした場所なんです」
その話を聞いた瞬間、父は昨晩の夢の意味が朧げながらも理解できた気がした。それ以来、父は幽霊や怪談についてほとんど話さなくなった。ただ、この一件だけは例外で、「ああいうことは本当にあるのだな」と真剣な表情で呟いた。その言葉は、今もなお私の記憶に鮮明に焼き付いている。
夢と現実が交錯する不可解な体験だった。父が見たあの夢は偶然だったのか、それとも何かの導きだったのか。その答えは未だに明らかではないが、あの時の父の表情は決して忘れることができない。