あれは、もう何年も前のことだ。
山に入るたび、あの日の匂いを思い出す。湿った土と、夏草が腐りかけた甘い匂い……そこに混じる、かすかに血の匂い。あのとき拾ったもののことを、まだ誰にもきちんと話したことはない。
初めて見たとき、そいつは岩陰で小さく震えていた。毛もまだ生え揃わず、目も開いていない。掌に乗るほどの赤子で、口を小さく開けては、細い舌で空気を舐めるように動かしていた。なぜあんな場所に、しかも一匹だけいたのか……そんなことを考える余裕もなく、私はその小さな命を懐に入れた。
野犬の子は、猟師にとって宝だ。育てば鼻も利くし、山の道連れとしてこれ以上の相棒はいない。胸の奥が妙に高鳴って、早く家に帰ってミルクをやろうと急いだ。
ところが日が経つにつれ、その期待は少しずつ妙な違和感に変わっていった。毛は犬のような柔らかさではなく、黒く硬く、手ぐしも通らないほどゴワついている。耳は尖らず丸く、座る姿は犬のように前足で体を支えず、どっかりと尻をつけていた。ミルクを飲むときも両前足を器用に使い、まるで人間の子のように抱え込んで飲むのだ。
半年も経つ頃、ようやくわかった。
犬じゃない。熊だ――。
驚きよりも、何故か嬉しさが勝った。熊は犬より鼻が利くし、足も速い。力も強い。山を知り尽くす私にとって、それは一種の夢だった。私はその日から「猟熊(りょうぐま)」としてそいつを育てることに決めた。
一年後、その熊は成獣にはまだ遠いが、それでも私より大きくなり、筋肉の下で骨がごつごつと動くのが背中越しにわかるほどに成長していた。初めて狩りに連れて行った日、奴は突然風を嗅ぎ、脇目もふらず駆け出した。あまりの速さに息が切れ、犬でなければとうに見失っていただろう。
追いついたとき、熊は木の幹に顔を突っ込み、何やら引きずり出していた。
それは野生の日本ミツバチの巣で、蜜が滴っていた。私が呆けている間に、熊はそれを大事そうに咥えて戻ってきた。
それから半年後。ある日、奴は再び風を嗅ぎ、今度は崖の縁へと私を誘った。見上げれば、岩棚に巨大な鳥の巣があった。中には鶏ほどの大きさの雛がうごめき、巣の端には、まだ新しい鹿の死骸が転がっている。巣全体が異様に大きく、枝と骨で組まれているのがはっきりわかった。
足元には砕けた骨が無数に散らばっていた。人の骨も混じっているように見えた。
吐き気を堪えていると、空気が震えるような羽音が頭上から降ってきた。
現れたのは、身の丈三メートルはある化け物じみた鳥だった。形はハヤブサと鷲を混ぜたようで、尾は氷の結晶を思わせる長い飾り羽がたなびいていた。翼を広げた瞬間、私は呼吸を忘れた。その長さは十メートルを優に超えていた。内側には青い斑点が並び、瞳は∞の形をしており、中心がじっと私を射抜いていた。
声が出ない。足も動かない。逃げなければ、と頭ではわかっているのに腰が抜けて動けなかった。
次の瞬間、背中から強く押される感覚――いや、熊が私を背に乗せ、地を蹴っていた。犬も後を追い、私たちは一気に森の奥まで駆け抜けた。
それからだ。村で牛や馬が次々と姿を消すようになったのは。
牛小屋の屋根が引き裂かれ、血の跡と蹄の削れた地面だけが残る。私はあの化け鳥の仕業だと確信した。
村中の猟師を集め、退治を決意した。囮として牛を一頭、広場に繋ぎ、夜明けを待った。
夜明け前、またあの羽音が響いた。あまりの低さに胸骨が震えた。奴は舞い降り、牛を片足で掴むと飛び上がろうとした。その瞬間、火薬の爆ぜる音が何発も続いた。
しかし化け鳥はひるまず、ゆるりと高度を上げ、森の向こうへ消えていった。
地面には鮮やかな赤が点々と残っていた。それ以来、奴の姿を見た者はいない。
後日、古い文献を漁った村の長が言った。「あれは『鷲駿(ぐはい)』だ」
ひらがなで書くと「ぐはい」だが、読みは「ぐわい」。古くから牛馬を攫う妖鳥として伝わってきたという。
それを聞いた夜、眠りにつく寸前、あの羽音が耳の奥で蘇った。
私は目を開けた。障子の向こう、月明かりに黒い影が落ちていた。尾の長い、ゆらりと揺れる影が――。
[出典:908 顔 ◆3EgJTOI8PA New! 2011/10/03(月) 13:54:36.99 ID:6mtrUVG60]