刑事課に勤める知人が、ある事件の記録を閉じながら言った。
「あれは、動機が分からないままなんだ。」
男は三十代半ば。痩せぎすで、職場でも近所でも、強く印象に残るような人物ではなかった。ただ一つ、彼の生活を支配していたものがあった。アイドル『ミコたん』だった。
彼は月々の給料のほとんどを彼女に費やしていた。写真集、限定グッズ、オンライン配信の課金、遠征費。食事は質素で、部屋には最低限の家具しかない。だが壁一面には、笑顔のミコたんが並んでいた。周囲には冗談めかして言っていたという。「俺はミコたんのために生きてるんだ。」と。
都内のライブハウスで行われたバースデーイベントの日、会場は熱気に包まれていた。色とりどりのペンライトが揺れ、ステージの中央で彼女は光を浴びていた。男は最前列ではなかったが、視線はまっすぐ彼女を追っていた。
終演後の握手会。長い列の途中で、スタッフが声をかけた。
「いつもありがとうございます。覚えてますよ。」
男は何度も頷いた。自分が認識されているという確信が、身体の奥を満たした。順番が来る。目の前で、ミコたんが笑う。
「来てくれてありがとう。大好きだよ。」
定型句のはずだった。誰にでも向けられる言葉のはずだった。それでも男は、その瞬間だけは自分だけに向けられたと感じたという。
握手は数秒で終わった。だが、彼はその場を離れたあとも、手の温度が消えないと語っていたらしい。
事件が起きたのは三日後だった。ミコたんは自宅前で刺殺された。深夜、帰宅したところを襲われた。犯人はほどなくして逮捕された。男だった。
抵抗はなかった。取り押さえられたときも、彼はぼんやりと空を見ていたという。
取り調べ室で、知人は男と向き合った。
「どうしてだ。」
男はしばらく何も言わなかった。机の上に置かれた写真集を見つめていた。最新の一冊。イベント当日に購入したものだった。ページは何度も開かれた跡があり、角が少し折れていた。
「ずっと、明るかったんです。」
やがて男はそう言った。
「彼女は、僕の中で光だった。でも……。」
そこで言葉が止まった。知人が続きを促すと、男はゆっくりと首を振った。
「違う。」
それ以上、明確な説明はなかった。
ただ、捜査の過程で一つだけ奇妙な点があった。男の部屋から、ぬいぐるみが押収された。市販品に見えたが、中に小型のカメラが仕込まれていた。ライブハウスやイベント会場で撮影された映像が保存されていた。
問題は、その映像の一部だった。
握手会の様子を至近距離から捉えた映像。男の視点とは思えない角度で、ミコたんの顔が映っている。笑顔。誰にでも向けられる明るい表情。だが、数フレームだけ、照明の陰影のせいか、目元が暗く沈んでいるように見える場面があった。
技術班は「光の加減です」と報告した。実際、他のファンの映像でも似たような瞬間は確認できた。
だが男は、その場面だけを何度も再生していた形跡があった。
取り調べの終盤、知人は写真集を男の前に差し出した。
「これも同じだな。」
男はページを開いた。そこには満面の笑みのミコたんが写っている。背景は白く飛び、彼女の顔だけがくっきりと浮かび上がっている。
男は写真を見つめ、静かに言った。
「影が、広がってる。」
知人には、ただの印刷物にしか見えなかった。だが男は、ページの端に指を置き、そこから何かが滲み出しているかのように目を細めていた。
裁判では、妄想性障害の可能性が指摘された。判決は確定し、事件は記録の一つになった。
それでも知人は、あの写真集を処分できずにいるという。証拠品として保管されている最後の一冊。事件番号が記された透明袋の中で、ミコたんは笑っている。
先日、整理のために袋から取り出したとき、知人は一瞬、違和感を覚えたと言った。
「前は、もっと明るかった気がするんだ。」
照明のせいだろう。経年劣化かもしれない。そう考え直し、ページを閉じた。
だが閉じる直前、写真の中の彼女の視線が、わずかにずれているように見えたという。
カメラ目線ではない。ページの外、見る者の背後を、確かに見ている。
知人はそれ以上、写真を見ていない。
男が何を見ていたのか。
あの影が何だったのか。
事件記録には書かれていない。
だが証拠品の写真集は、いまも保管庫の棚で、こちらを向いている。
(了)