あれは数年前、まだ学生上がりで、ろくな定職にも就かずにバイトを転々としていた頃の話だ。
一階の一番端の部屋に住んでいた。築三十年近い木造アパートで、壁は薄く、隣の生活音はだいたい筒抜けだった。
隣には、二十代後半くらいの女がいた。いつも薄いベージュのカーディガンを羽織っていて、顔色が悪かった。化粧はしているのに血の気がなく、目だけがやけに澄んでいた。初めて目が合ったとき、なぜか「見られている」というより、「測られている」と思った。
ある晩、インターホンが鳴った。出ると、その女が手作りだというクッキーを差し出してきた。「作りすぎちゃって」と笑ったが、焼き色はまだらで、触ると少し湿っていた。甘い匂いの奥に、なにか生っぽい匂いが混じっていた。
それから、夜になると、隣から声が聞こえるようになった。女の声だ。笑っている。誰かと会話している調子だったが、相手の声は聞こえない。テレビでも電話でもない。ひとりで、誰かに向かって笑っている。
しばらくして、朝七時過ぎ、俺が出勤のためにドアを開けると、同じタイミングで隣のドアも開くようになった。濃紺のスーツに身を包み、髪をきっちり結んでいる。俺が階段を降りると、後ろから一定の距離でついてくる。駅までの道も、改札を通る時間も、ほとんど同じだった。
だが、帰りに見かけることはなかった。
奇妙だったのは、日が経つにつれて、女の身体が痩せ細っていったことだ。頬はこけ、手首は骨の形が浮き出ていた。なのに夜になると、隣からは以前よりも楽しげな笑い声が聞こえてきた。声はかすれていくのに、笑いだけは増えていった。
ある朝、ドアが開かなかった。七時を過ぎても、隣の気配はない。その日を境に、女の姿を見なくなった。
一週間後、廊下に匂いが漂い始めた。腐敗臭に似ていたが、どこか鉄の匂いが強かった。管理人に伝えると、大家が合鍵を持ってきた。立ち会いを求められ、俺も隣の部屋に入った。
部屋には何もなかった。
家具は撤去され、床板は剥がされ、壁の石膏も削られていた。住んでいた形跡よりも、壊した跡のほうがはっきりしていた。
奥の壁が破られていた。その向こうに、俺の部屋のクローゼットの裏側が見えた。板一枚の向こうに、自分の服が吊るされているのが見える。
その裏側に、何かが貼られていた。
紙だった。何十枚も、何百枚も、重ねるように。近づくと、それが俺の顔の輪郭をなぞったものだとわかった。目だけが濃く描かれている。視線だけが、すべて同じ方向を向いている。
紙の上には、細い毛が貼り付けられていた。どこから取ったのかは考えないようにした。糊はまだ湿っていて、指先に冷たく絡んだ。
その中心に、小さな紙が一枚、押し込まれるように挟まっていた。表に「ゆいごん」とあり、裏に俺の名字が書かれていた。
開くと、何も書かれていなかった。
白紙だった。
だが、光にかざすと、紙の繊維の奥に、細かな凹凸があった。何度も、何度も、同じ筆圧でなぞった跡のような。
その日、女の遺体は押し入れの中から見つかったと聞いた。冷蔵庫には水だけが残っていたらしい。死因は餓死だと説明された。
仕事はしていなかった。スーツ姿で出ていくのは、出かけるふりだった。家財を売り、何もなくなるまで、部屋を削り続けていた。
俺のクローゼットの裏を、見えるところまで。
壁は修繕された。新しい板が打ち付けられ、隣の部屋には別の住人が入った。何事もなかったように、生活は戻った。
それでも、夜になると、クローゼットの奥が気になる。板は確かに新しい。だが、服をかき分けると、奥からかすかな匂いがする。紙と糊と、湿った髪の匂い。
あの白紙の遺言は、警察が持っていったはずだった。
なのに、ある晩、クローゼットの底に一枚の紙が落ちていた。
折り目のない、まっさらな紙。
表にも裏にも、何も書いていない。
ただ、触れると、指の腹にわずかな凹凸が伝わる。まるで、そこに自分の名前をなぞるための跡が、最初から用意されているみたいに。
俺はまだ、その紙を捨てていない。
捨てても、なくならない気がするからだ。
今これを書いているあいだも、クローゼットの奥は静かだ。笑い声は聞こえない。
けれど、あの女が飢えていたのが、本当に食べ物だったのかどうかだけは、わからない。
[出典:271:本当にあった怖い名無し:2006/07/04(火)18:12:10ID:O6J0udrC0]