これは、あるマンションの住人から聞いた話だ。
そのマンションが建ったのは十年ほど前で、駅前の便利な場所だった。新築の分譲で、下の階にはいくつも店舗が入り、開業したばかりの頃は見物に来る人までいたらしい。花屋、雑貨店、カフェ。その一角に、小さなスパゲティ屋が入った。赤を基調にした内装で、壁も椅子もメニュー立ても統一されていて、店の前を通るだけで目に残る店だったという。切り盛りしていたのは若い夫婦で、奥さんのほうが愛想がよく、店の空気を明るくしていたそうだ。
味もよく、店はいつも混んでいた。
それが三年ほどして、急におかしくなった。
最初に気づいたのは、毎日のように店の前を通る住人たちだった。奥さんがやつれていった。前は客席の間をよく動き回っていたのに、次第にレジの奥から出てこなくなり、見かけても、うつむいていることが多くなった。しばらくして姿を見なくなり、数日後、店は「臨時休業」の札を出した。
理由はいろいろ囁かれたが、どれも確かな話ではなかった。ただ、店が再開した時には、奥さんはいなかった。
店は同じ店のままのはずだった。看板も、赤い外壁も、ガラス越しに見える配置もほとんど変わっていない。それなのに、前を通ると、まるでそこだけ何年も使われずに放っておかれたように見えたという。壁紙が少し剥がれているように見える日があり、照明は点いているのに、昼でも店の奥が暗かった。窓辺には花が置かれ、小物も並んでいるのに、骨董屋の売れ残りを詰め込んだような寒々しさがあったらしい。
聞かせてくれた住人は、夏に一度だけ中へ入ったそうだ。冷房は強くなかったはずなのに、席に着いた途端、足もとから冷えた。カビのような臭いがして、厨房からはいつまでも湯気の気配がしない。店主は以前と変わらない調子で挨拶したが、その声だけが妙に響いて、誰もいない店の奥から返事があるように聞こえたという。
その店は長く続かなかった。気づけば客は減り、ある日を境に閉まり、そのまま店主はいなくなった。
それで終われば、よくある話だったのかもしれない。
次に入ったのは、軽食も出す喫茶店だった。内装は全部やり直したと聞いた。赤かった壁は落ち着いた木目になり、椅子もテーブルも総入れ替えした。開店直後に見に行った住人は、たしかに前の店の名残は何もなかったと言っていた。ところが一か月もすると、レジ横に赤いメニュー立てが置かれ、窓際の席に赤い布が掛かり、観葉植物の鉢だけが赤に替わった。店主の趣味だろうと最初は思ったらしい。だが、その配置が、昔のスパゲティ屋とぴたり同じだった。
喫茶店は、しばらく続いた。
続いたが、長くいる客は皆、奥の席を避けるようになった。理由を聞いても、店の人は曖昧に笑うだけだったそうだ。ある日、その店主が営業中に倒れた。心臓発作だった。居合わせた住人は、倒れる直前、店主が誰もいない奥の席に向かって、急に姿勢を正したのを見たと言っていた。注文を聞く時の顔だったらしい。
そのあとも、店は何度か入れ替わった。雑貨店が入り、数か月で閉まり、次は漫画喫茶になったが、それも続かなかった。どの店も、改装のたびに前の痕跡は消える。明るい壁紙に貼り替え、棚を撤去し、照明を増やし、床も張り替える。それでも少し経つと、なぜか同じ場所に赤が戻ってくる。赤い布、赤い札、赤い縁取り、赤い花。業種が変わっても、そこだけ最初の店の置き方に寄っていく。
いま、その区画にはシャッターが下りている。管理会社が完全に塞いでしまったらしい。けれど、夜遅くに前を通ると、下の隙間から明かりがにじむことがあるという。電気は落としてあるはずで、もう中には何も置いていないはずなのに、通路に立つと、ときどきトマトソースを煮詰めたような匂いがする。
話してくれた住人は、最後にそれだけは本気の声で言った。
「あそこ、見ないほうがいいです。シャッターの隙間から中をのぞいた人、だいたい同じこと言うんで。暗いはずなのに、奥の席だけ赤く見えたって」
そう言ってから、その人は少し黙った。
「あと、これは変な話ですけど、一度見た人の部屋、しばらくすると赤いものが増えるんです。自分で買った覚えがないのに」
私はその時、ただの噂だと思った。
けれど帰ってから、台所の流しに見慣れない赤い布巾が一枚かかっているのを見つけて、まだ捨てられないでいる。
(了)