あの家のことを、私はまだ夢に見る。
長崎の、地図にも小さくしか記されていない島。祖父の家。すでに取り壊され、存在しないはずのその屋敷の中を、私は夜ごと彷徨っている。
父が生きていた頃、家系の話は一切語られなかった。父が死んだとき、私は三十を過ぎていたが、それでも初めて聞かされた「血」の話には、頭の奥がじんと痺れた。
名家だったらしい。古くは島の庄屋のような立場にあり、明治には議員も出し、島では顔役として知られていたという。島の誰もがその家を敬い、恐れ、そして口にすることを避けていた。
家の名は、今ではもう意味を持たない。父は家出同然に島を出て東京で母と出会い、私が生まれた。祖父の死後、屋敷は取り壊され、家系も私の代で絶えた。名実ともに終わったはずだった。
だから、書ける。そう思っていた。
高校一年の夏、初めて一人で島を訪ねたとき、祖父は妙に饒舌だった。私を連れて屋敷の奥へ奥へと案内しながら、まるで長年溜め込んできたものを吐き出すように語った。
「口外するな」
そう言いながら、祖父の言葉は止まらなかった。
この家は、人を売っていた。
それも、ただの人身売買ではない。全国の農村を巡る仲買から子供を買い取り、ある程度の教育を施し、仕立てて、欧州へ送る。表向きは孤児の保護、実態は商品化だった。
室町の終わりにはもう始まっていたという。信じがたい話だった。だが明治にも、昭和の初めにも、それは確かに続いていた。祖父の口ぶりからして、あの人は関わらずとも見ていた。見たうえで、黙って生きてきた。
子供は当時の金で二十円から五十円。十円が一万円に相当する時代だから、安すぎる命だ。
島に連れてこられた子供たちは、不思議と悪くは扱われなかったらしい。洋服を与えられ、美味な食事を与えられ、清潔な部屋で眠る。遊び道具まで与えられ、まるで養子のように暮らしていたという。
だが、それは見せかけだった。
子供たちが住まわされたのは、屋敷の「見えない二階」だった。外観には二階など存在しない。屋根裏でもない。だが内部には、窓もない暗い空間があり、子供たちはそこで教育を受けていた。
言葉、礼儀作法、読み書き、洋食の作法。女子には調理と仕立て。すべては、異国で恥をかかぬための準備だった。
二階へは一方通行の階段で昇る。だが降りるには、下から板を渡してもらうしかない。誰かの許しがなければ、子供は一生降りられない構造だった。
しかも、階段の最上段には片側からしか開かない仕切りがあり、閉ざされれば檻になる。逃げることは、最初から想定されていなかった。
祖父が語った中で、最も声を落としたのはその先だった。
十歳を過ぎて発育の悪い子。買い手がつかない女子。十五歳を超えた者たち。
殺され、井戸に落とされたという。使いものにならぬ子を処理する捨て井戸が、屋敷の奥にあった。口伝だが、夜ごと井戸の底から声がしたらしい。
「しにぞこない」
「なかまいり」
祖父はそこまで語って、黙った。
私は実際に、その井戸の痕跡を見た。庭の隅に鳥居が立ち、風化しかけた岩に梵字が刻まれていた。供養のためのものだと、誰かが言った。何を鎮めているのか、考えないようにした。
父がなぜ島を出たのか、そのとき初めて理解できた気がした。祖父は語った。父は語らなかった。語れなかったのだと思う。
屋敷の取り壊しに、私は立ち会わなかった。父の遺言どおり、土地も財産もすべて島の者に渡した。私にできることは、関わらないことだけだった。
それから、夢を見るようになった。
私はあの家にいる。階段を昇っている。だが、降りられない。
最初はそれだけだった。だが回を重ねるごとに、夢は変わっていった。暗く窓のない部屋に、白い洋服を着た子供たちが並ぶ。笑っている。静かに、こちらを見ている。
やがて、誰かが数え始める。
ひとり、ふたり、みたり。
その声は、いつの間にか私の声になっていた。
目覚めると、指先がひどく冷えている。夢の中で、何かを握っていた感触だけが残っている。ぬるりとした、古いロープの感触だ。
もう島へ行くことはない。家もない。けれど、家系というものは、建物より深く残る。
私はあの家の最後の子孫だ。そう思っていた。
だが、夢の中で私はいつも、数えられる側ではない。数える側に立っている。
並んでいる子供たちは、私を見て安心したように目を伏せる。まるで、戻ってきた者を見るように。
夜の静けさの中で、階段のきしむ音が聞こえる気がする。上でも下でもない位置から。
この話を語るのは、これで終わりにする。そうでなければ、次に夢を見るとき、もう戻れない気がするからだ。
あの階段の先では、いまも順番が整えられている。
私の席は、最初から空いている。
(了)