俺はバイオ系の大学院を修了し、博士号を取って大学に残った。
残れたというより、残るしかないと思い込んでいた。研究室の空気は薄い薬品臭と薄い敵意でできていて、パワハラで精神を病んだ。気づいたら何もできなくなって、布団の中で天井の汚れを数えるだけの人間になっていた。
一年のニート生活のあと、ようやく中小企業に潜り込んだ。世間では俺みたいなのを「ピペド」と呼ぶらしい。ピペットを握って博士まで行ったのに、使い道がないやつ。笑える。笑えない。
初出勤の日、入口の自動ドアが開く音がやけに大きく聞こえた。受付で渡された社員証のケースは新品なのに曇っていた。総務の女性が「履歴書と職務経歴書は人事で預かってますね」と言った。その言い方が、まるで汚れ物をしまうみたいだった。
工業系の先輩が待ち受けていた。肩で笑って、俺の顔じゃなく名札を見た。
「お前、なんでバイオ系なんて選んじゃったの?工学系にすればよかったのに(笑)東大まで出てこんな会社かよ(笑)まあ、バイオなんてすぐになくなると思うけど、頑張ってね(笑)」
頭の奥が熱くなった。怒りというより、今まで積み上げてきた時間を紙屑扱いされた感覚が気持ち悪かった。俺はその場では何も言わなかった。言っても勝てないと思ったからだ。だから別の勝ち方を選んだ。
復讐の方法は、仕事を頑張ることだった。

企画、営業、実験、報告、知財、予算管理。国の補助金の書類は、研究費申請より陰湿だった。深夜のオフィスでコピー機の熱だけが暖房みたいに感じる日が増えた。過労で吐いて、体重が落ちて、次にストレスで増えて、心臓が止まって倒れたこともある。それでも仕事は楽しかった。怖いくらいに。
三年後、バイオ部門が会社のメイン事業になった。俺は責任者を任された。あの先輩もバイオ部門に異動してきて、俺の部下になった。俺は彼に不要な資料整理をさせた。紙の山の前で黙らせるのが一番手っ取り早かった。
ただ、給料は年俸三百万円のままだった。会社側は「成果は認めるが、バイオ部門はコストがかかるため昇給は難しい」と言った。別部署では普通に昇給しているのを知っていたから、言い訳だとわかった。わかったうえで、どこが壊れているのかが見えなかった。
違和感が、ある日、後輩の女性社員の口から形になって出てきた。彼女は目を赤くして、声を落とした。
「上司がトイレで言ってたって。ピペドさんは履歴書が汚いし、バイオ系だから転職も難しいでしょ。そういう人は安く使えていいのよねって」
履歴書が汚い。言葉としてはよくある侮辱だ。経歴に傷があるという意味だ。俺も最初はそう受け取った。だけど、その場で妙な匂いがした。湿った紙の匂い。昔、培地をこぼしたノートの匂い。
その日の夜、人事のキャビネットの前に立った。鍵は持っていないはずなのに、なぜか引き出しが開いた。自分でも理由がわからない。開くと信じたら開いてしまった、そんな手応えだった。
個人ファイルが整然と並んでいる。その中に俺の名前のラベルがあった。指で引き抜くと、紙がやけに重い。封筒の角が少し湿っていた。嫌な予感がして、蛍光灯の下でそっと開いた。
履歴書の左下に、薄い茶色の滲みがあった。コーヒーでもこぼしたみたいな汚れ。だが、乾いていない。触れると指先がわずかに吸い付いた。汚れの縁は、紙の繊維の奥へ入り込んでいて、爪でこすっても取れない。そこからほんの少しだけ、甘い腐敗臭がした。
俺は思い出した。大学院の最後の頃、紙ベースの簡易バイオセンサーの実験をしていた。セルロースに吸着するタンパク質を使って、反応を紙の上に固定する。簡単な実験だった。簡単すぎるから、失敗しても笑って済むはずだった。だが俺は一度だけ、乾く前の反応液を履歴書に飛ばしてしまった。提出前夜、慌てて拭いた。薄く残ったシミは、照明の角度によって見えたり見えなかったりした。俺は「この程度なら」と思って出した。
その程度が、まだ生きていた。
汚れの中で、微細な光が動いた気がした。錯覚だと思おうとした瞬間、紙の端に、ほんの小さな点が増えた。ほくろのような点が一つ、二つ。汚れが広がったわけじゃない。点が増えた。生物みたいに。
背中が冷えた。俺はファイルを閉じようとした。だが、閉じた瞬間に手の甲に違和感が走った。紙の縁で切ったような痛みではない。薄い膜が貼りつく感じ。手の甲を見ると、指紋とは別の模様が浮いていた。茶色い薄膜のようなものが、皮膚のしわに沿っていた。
洗面台でこすっても落ちない。石鹸の匂いの下に、あの湿った紙の匂いが残った。
翌日から、周囲の言葉が少しずつおかしくなった。
上司の五十代女性は、普段はもっと理屈っぽい人間だった。ところが会議で俺の予算を削るとき、彼女は急に口調を崩した。
「バイオ部門はコストがかかるため昇給は難しいのよね」
言い回しが、トイレで聞いた台詞と同じだった。彼女はその直後、何事もなかったみたいに資料の数字に戻った。誰も気にしていない。気にしていないふりをしているのか、そもそも聞こえていないのか、判別がつかなかった。
あの工業系の先輩は、資料整理の山に埋もれながら、時々ふっと笑って言った。
「まあ、バイオなんてすぐになくなると思うけど、頑張ってね」
俺は彼にそんな言葉を吐かせるために、ここに異動させたわけじゃない。言わせたくてやったはずなのに、聞くたび胃が冷えた。あの笑い方が、本人のものじゃなくなっていく。まるで録音を再生しているみたいに、同じ抑揚で繰り返す。
転職活動を始めた。面接官の一人が、俺の履歴書を受け取った瞬間、顔色を変えた。紙の端を指でなぞって、嫌そうに鼻を鳴らした。
「お前、もう三十三でしょ?ちゃんと生きてこなかった奴は顔を見ればわかる。なんか童顔で赤ん坊みたいな顔してるもん」
彼は言い終わったあと、自分の言葉に驚いたように口を閉じた。目だけが泳いだ。俺はその時、彼の指先に薄い茶色い膜が移っているのを見た。光の加減でしか見えない程度の薄さだったが、確かにあった。
帰り道、俺のスマホに通知が届いた。知らない番号から、短いメッセージ。
履歴書が汚い
それだけだった。送信者を調べても出てこない。消しても、翌日また届いた。文面は同じで、句読点もない。まるで、汚れそのものが文字になって押し付けてくるみたいだった。
会社の仲間に転職活動を始めることを伝えた。後輩の女性も、他の先輩たちも、同じように辞めると言い出した。「もうこの会社には未来がない」と。理由はそれぞれ違うはずなのに、言い方が妙に揃っていた。誰かが言うと、他の誰かが同じ節で続ける。会話が、歌みたいに繰り返される。
五人で辞めることにした。同じ日に、一時間おきに辞意を伝える。上司を追い詰めてやろうという痛快な計画だった。俺は三人目だった。
上司の席の前で退職届の封筒を出した。封筒の紙が、やけに湿っていた。印刷したばかりでもないのに、指に吸い付く。上司が怒鳴り始めた。内容は覚えていない。声が大きかったのに、言葉が薄かった。怒鳴り声の底から、別の声が浮いてくる。
「安く使えていいのよね」
俺は無表情で封筒の角で自分の鼻をツンツンした。約三十分間。上司の目は俺の顔じゃなく封筒を見ていた。目が、汚れを追っているみたいだった。
五人目の仲間は、ペンを投げつけられたらしい。ペンが当たった壁に、黒い線が残った。後で見に行くと、その線の周りだけ壁紙が湿っていた。壁が紙みたいに、息をしているように見えた。
偶然、その日は上司の誕生日だった。最後の退職報告のあと、俺たちは事務室の電気を消した。ケーキのロウソクに火を灯し、ハッピーバースデーを歌った。子供じみた嫌がらせだ。自分でもそう思う。
上司が戻ってきた。暗闇の中で、ロウソクの火が揺れた。彼女は呆然と立ち尽くした。次に顔が赤くなった。唇が震えて、怒りを堪えているのがわかった。手を握りしめ、全身が小刻みに震える。叫びたそうなのに、声が出ない。口は動いているのに音にならない。
その沈黙の中で、俺は気づいた。彼女の白いブラウスの袖口に、薄い茶色の滲みが広がっている。ロウソクの光が当たると、滲みの縁がゆっくり増える。水が染みる速度ではない。点が、増える。
俺たちは去った。最初にバカにしてきた先輩に、五人分の仕事を押し付けて。彼は大変そうだったが、やりがいのある仕事なので頑張ってほしい。本当にそう思ってしまった自分が、あとで気持ち悪くなった。
数ヶ月後、彼は機械を壊して退職した。壊れた機械は、誰が見ても初歩的なミスだったらしい。上司は離婚した。会社は利益を上げられなくなった。取引先に転職した仲間から「もうあそこ、空気最悪っすよ」と笑いながら報告が来た。
俺の復讐は成功したはずだった。
なのに、胸の奥の重さが取れない。勝った感じがしない。勝ったあとに残るはずの静けさがなく、代わりに、湿った紙の匂いだけが残った。
後輩の女性には告白された。断った。断った理由は説明できる。けれど説明すると全部が綺麗になってしまうから、説明しない。気まずくなって、仲間とも会えなくなった。俺は一人になった。人間関係が切れたというより、紙が破れたみたいに切れた。
転職先が決まった。採用通知の封筒は、開ける前から湿っていた。嫌な予感がしたが、開けた。内側に薄い茶色の点があった。見なかったことにした。
入社手続きの日、若い人事の男が俺の書類を受け取った。彼は一枚目を見て、ふっと眉をしかめた。鼻を鳴らした。あの動作を、俺は知っている。
「履歴書、汚れてますね」
彼は自分の声に違和感を覚えたように喉を押さえた。次の瞬間、口が勝手に動いた。男の口から出てきたのは、五十代女性の声だった。
「ピペドさんは履歴書が汚いし、バイオ系だから転職も難しいでしょ。そういう人は安く使えていいのよね」
周囲の空気が固まった。だが誰も笑わない。誰も怒らない。まるで、その言葉が最初からそこに印刷されていたみたいに、受け流される。男は青ざめて黙った。黙った指先に、薄い茶色い膜が広がっていくのが見えた。
俺はその場で、自分の手の甲を見た。消えたと思っていた模様が戻っていた。指紋の上に、別の指紋が重なっている。自分のものじゃない。だけど、どこかで見たことがある。履歴書の左下の汚れの縁の形と同じだった。
帰宅して手を洗った。水が白い泡になり、泡が流れ落ちる。泡の中に、茶色い点が混じっている。流しても流しても点が増える。排水口の奥で、紙を揉むような音がした。
鏡を見ると、顔が少し幼く見えた。童顔で赤ん坊みたいな顔。面接官の言葉が、俺の喉の内側から響いた。俺は笑っていないのに、口角だけが勝手に上がった。
スマホにまた通知が来た。知らない番号から。
履歴書が汚い
指で消そうとすると、画面の上に薄い茶色の膜が浮いた。指先に吸い付く。画面の向こうで、誰かがピペットのチップをはめる小さな音がした。
俺はバイオを選んだ。だからこうなったのか。逆だ。こうなるために選ばされたのかもしれない。汚れは紙に残る。紙はコピーされる。コピーは配られる。配られた先で言葉が増える。点が増える。俺の人生は、点の増え方と同じ速度で進んでいく。
翌朝、社員証のケースを見た。新品なのに曇っていた。曇りの奥に、薄い茶色の点が一つ増えていた。
コメント
252: 「東大の大学院出身で、バイオ系の院生や院卒の知り合いも多いけど、そんな待遇の話は聞いたことがないな。進んだコースが悪かったんじゃないか?」
253: 「医学、獣医学、歯学は専門職だから別だけど、それ以外の理系は本当に最悪。興味があれば『ピペド』で検索してみて(笑)」
「ドクターからポスドクを経てドロップアウトする、最悪のパターンにはまる人が年々増えている。世間では高学歴と呼ばれるが、俺は『重学歴』と呼びたい。学歴が重すぎて身動きが取れないから」
[出典:241: 本当にあった怖い名無し 2013/10/30(水) 23:07:05.64 ID:SYlH7cv90]