別の寺から頼まれて法事に出たのは、ちょうど雨がぱらついていた夕暮れだった。
本堂の匂いがいつもと違っていたのは、線香の種類のせいだろうか。それとも、俺の体調のせいか。あの時の違和感をもっと気にしておけばよかったのかもしれない。
その法事の後だった。会食の席で、土建屋の社長と隣り合わせになったのは。
恰幅のいい男だった。ひどく焼けた肌に、皺の深さが目立つ顔。酒が入っていたせいか、やけに饒舌で、俺に仏教の話を次々に振ってきた。阿弥陀如来と地蔵菩薩の違いは何か、とか、先祖の供養って本当に意味あるのか、とか。
適当にあしらおうかとも思ったが、妙に素直な目をしていたものだから、律儀に答えていたらすっかり気に入られてしまったらしい。
その後、何度かその社長の会社の近くまで行く用事があった。顔でも出すかと立ち寄ると、たいてい社長は不在だった。現場だ、出張だ、急用だと留守がちで、その代わりに応対してくれたのが事務長だった。
年の頃は四十代後半、無口で人当たりが柔らかいが、何かしら腹の底に沈殿物があるような男だった。
それでも妙に話が合い、三度目に顔を合わせた時には「何かあったらよろしくお願いします」と言われて連絡先を交換する流れになった。
あの時はまだ、これが始まりになるとは思っていなかった。
ある晩、九時を少し過ぎた頃だったか。事務長から突然電話がかかってきた。
内容は会社の経営に関する相談、という名目だったが、実際はほとんど愚痴だった。
「資材費が高い。人が集まらない。下請けが勝手に値上げしてくる。社長のくせに手を出してこない」
などと、延々と吐き出すように話してくる。
俺は土建屋じゃない。口を挟む筋合いもないし、専門的な知識もない。ただ、少し冷静になった方がいい、みたいな常識的なことをぽつりぽつりと返していた。
その時、不意に口調が変わった。
「そう言えば話変わるけど」
「ええ、何でしょうか」
「〇〇土建の社長って知ってるよね?」
思い出すまで少しかかったが、ああ、あの時いた、少し陰のある一人親方だ。
「前の工事のとき、お金を受け取りに来てた方ですよね」
「……あの人、自殺したよ」
最初は意味が理解できなかった。聞き間違いかとも思った。
「えっ、それ本当ですか?」
「うん、本当。首を吊ってたらしい」
その時代、公共工事は減らされ、建設業界はどこも苦しんでいた。仕事が減ったのも一因だろう、と事務長は言った。
だが、それだけではなかったらしい。
金の貸し借り、家族関係のトラブル、下請けとの揉め事。小さな破片が積もり積もって、最後に崩れた。
詳細は伏せられたが、聞かされる側としてもそれで充分だった。
ちょうどその時だった。窓から「コン、コン」と音がした。
最初は気にも留めなかった。虫か何かがガラスにぶつかったのかと。けれど妙だった。
俺の部屋の窓にはサッシが嵌まっている。しかも厚手のカーテンまで引いている。外から何かが当たるなんて、ありえない。
気のせいかと思いかけたその時、再び「コン、コン……コン」
三回、一定の間隔で。
いやに律儀なノックだった。妙に人間的な、機械ではないリズム。
ぞわり、と背筋を冷たいものが這った。
社長の話題が出るたびに、音がすることに気がついたのは、その直後だった。
「……あの、社長の話、もうやめた方がいいかもしれません」
「え?なんで?」
「……今、うちに来てます。社長」
沈黙が数秒続いた。
向こうで息を呑む音が聞こえた気がした。
「……わかった。じゃあ、お休み」
電話が切れた。窓からのノック音も、ぱったりと止んだ。
何かが遠ざかっていくような、奇妙な静寂だった。
次の朝、俺は本堂で経を唱えた。名前を出さずに、ただ「ある人の冥福」を祈った。
それで終わった……はずだったのだが。
その日の午後、もう一度事務長から電話がかかってきた。
「今朝、うちの社長が倒れました」
一瞬、意味がわからなかった。
「え、急にですか?」
「ええ。現場で突然、頭を押さえてうずくまって……そのまま救急車で」
言葉の端が震えていた。
脳出血だったらしい。幸い命は助かったが、しばらくは意識も戻らない状態だったという。
……あの夜。社長の話をしたのは、たしかに俺と事務長だけだったはずだ。
けれども、あのノックの音は、まるで何かが二人の会話に「聞いていた」とでも言いたげだった。
社長が来ていたのは、本当に「うち」だったのか。
もしかしたら、俺は囮にされていただけで、最初から向かっていたのは……
それ以来、あの会社には立ち寄っていない。
連絡も取っていない。事務長がどうしているかも知らない。
けれども、時々、夜にひとりでいると、窓の向こうからかすかな音が聞こえる気がする。
あれは、風の音なのか。それとも──
[出典:763 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/07/31(月) 23:43:01.80 ID:gx7qudFn0.net]