別の寺から頼まれて法事に出たのは、雨がぱらつく夕暮れだった。
本堂に入った瞬間、わずかに匂いが違うと感じた。線香の種類が変わったのかもしれない。あるいは自分の体調のせいか。だが胸の奥に、理由のない引っかかりが残った。
法事の後の会食で、土建屋の社長と隣り合わせになった。恰幅がよく、日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。酒のせいか饒舌で、阿弥陀如来と地蔵菩薩の違いは何か、供養に本当に意味はあるのかと、矢継ぎ早に尋ねてきた。
軽く受け流すこともできたはずだが、妙に真剣な目をしていた。気づけば、こちらも真面目に答えていた。別れ際、「また話を聞きたい」と手を強く握られた。
その後、何度か会社の近くへ行く用事があり、立ち寄った。だが社長はいつも不在だった。現場だ、出張だと理由はさまざま。代わりに応対したのが事務長だった。四十代後半、穏やかな口調だが、笑うと目の奥に何か濁りが残る男だった。
三度目に顔を合わせたとき、自然な流れで連絡先を交換した。
ある晩、九時を少し過ぎたころ、事務長から電話が入った。経営の相談と言いながら、内容は愚痴だった。資材費が上がる、人が集まらない、下請けが値をつり上げる。社長は表に出ない、と。
自分は門外漢だ。ただ「焦らないほうがいい」といった、誰にでも言える言葉を返していた。
ふと、事務長の声が低くなった。
「そういえば、〇〇土建の社長って覚えてますか」
思い出すまで時間がかかった。以前、金の受け取りに来ていた、一人親方の男だ。
「首を吊ったそうです」
言葉がすぐに理解できなかった。
理由は複雑らしかった。仕事の減少、金銭の揉め事、家族との不和。小さな綻びが重なり、最後に切れたのだろうと、事務長は淡々と語った。
そのとき、窓から「コン」と音がした。
虫かと思ったが、厚手のカーテンは閉めてある。続けて「コン、コン」と二度。一定の間隔。ためらいのない音だった。
気のせいだと流そうとしたが、事務長が故人の名を口にした瞬間、また鳴った。
「……話題を変えましょう」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「どうしました」
「こちらに、来ています」
沈黙が落ちた。電話の向こうで、浅い呼吸が聞こえた。
「……そうですか」
それだけ言って、通話は切れた。
音は止んだ。止み方が、扉の前から足音が遠ざかるようだった。
翌朝、本堂で経を唱えた。名は出さなかった。ただ、昨夜の話題に上がった者たちすべてに向けて。
その日の午後、再び事務長から電話が入った。
「今朝、うちの社長が倒れました」
現場で突然、崩れるように膝をついたという。救急搬送され、意識は戻らない。
昨夜、故人の話をしたのは自分と事務長だけだ。だが社長の名も、事務長は何度か口にしていた。
あの音は、誰の名に反応していたのか。
それ以来、会社には行っていない。事務長とも連絡を取っていない。
ただ、夜に電話が鳴ると、一瞬ためらう。出る前に、窓のほうへ目が向く。
名前を口にした瞬間、向こう側に届くのだとしたら。
いま、これを読んでいるあなたは、誰の名を思い浮かべただろうか。
窓の外は、静かだろうか。
[出典:763 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/07/31(月) 23:43:01.80 ID:gx7qudFn0.net]