これは度会さんから直接聞いた話を、わたしなりに整理したものである。
どうしても忘れられない。忘れようとしても、夜になると脳裏に浮かんでしまう。
あの奇妙な「未解決事件」の顛末を。
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もともとわたしはオカルト好きでもなければ、刑事ドラマに夢中になるような質でもなかった。
ただ、ある探偵事務所に出入りするようになってから、妙な話ばかり耳に入るようになったのだ。
その中心にいるのが度会という男だった。元刑事。いまは探偵。
実直というよりは、どこかすり減ったような眼をしていて、笑うときも唇だけがわずかに動く。
そんな彼が「変な話を聞かせてやる」と切り出したのが、青森での行方不明事件だった。
消えたのは一人の長距離トラック運転手。
名前を出すのは控えるが、三十代半ば、独身。家族は母親だけが健在で、休みのたびに実家へ帰っていたという。
問題も借金もない。なぜ突然、跡形もなく消えなければならなかったのか。
最後に姿を確認されたのは、青森県内の高速道路沿いにある古びたドライブイン。
そこは倉庫を改造した「長距離トラック専用の休憩所」として知られていた。
巨大なシャッターが開き、運転手たちはトラックごと中に滑り込ませ、車内で仮眠をとる。
面白いのは、そこで「起こしサービス」をやっていたことだ。
管理人のオバちゃんに「何時何分に」と伝えておくと、その時間にポットのお茶を持って起こしに来てくれる。
運転手たちの間では、ありがたい習慣として重宝されていたらしい。
その夜も運転手はシャッターの中へ入り、きちんと時間を伝えて眠った。
オバちゃんが起こしに行ったとき、そこに人影はなかった。
トラックは残されていた。財布も免許証もそのまま。エンジンキーも抜かれていた。
だが、運転手だけが忽然と消えていた。
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調べていくと、不思議な証言が出てきた。
「普段は使ってはいけない倉庫がひとつだけある」
古参の運転手がそう言ったのだ。
その倉庫はもともと本業の物流会社が使っていた場所だったが、なぜか昔から「封印」されていた。
理由は誰も知らない。ただ、オバちゃんの旦那――つまり前の管理人がそう決めていた。
旦那が死に、オバちゃんが引き継いでからもその掟は守られていたという。
だが、その夜。
「いつも閉まっているはずのシャッターが開いていた」
別の運転手がそう証言している。
中にトラックが一台、すでに停まっていた。
不審に思ったその運転手がオバちゃんへ報告に行き、そこから騒ぎが広がった。
消えた男のトラックは別の倉庫にあった。では、あのシャッターの中に停まっていたのは誰だったのか。
オバちゃんは泣きながら繰り返したそうだ。
「鍵は閉めていた。絶対に開くはずがない」
だが、現に開いていたのだ。
青森の深夜、周囲には人家もなく、歩いて逃げることなど不可能だった。
度会さんは刑事時代の伝手を使い、徹底的に行方を追った。
十日間の空白の後、運転手はついに見つかった。
……だが、あまりに場違いな場所で。
***
瀬戸内海。
人ひとりがようやく立てる程度の岩礁。
漁に出ていた海女が、そこに横たわる遺体を発見した。
なぜ青森で消えた人間が、瀬戸内の孤立した岩の上で死んでいなければならないのか。
しかも警察によれば、死後二日か三日しか経っていなかった。
十日の空白のうち、七日ほどはどこでどう過ごしていたのか。
そこは誰も答えられなかった。
遺体の状況はさらに異様だった。
検視官がまず驚いたのは腹のふくらみだった。
まるで臨月の妊婦のように、腹部がぽっこりと突き出ていたという。
普通なら水死を疑う。海水が体内に溜まって膨れたのだろう、と。
しかし解剖の結果、胃や肺に水はなかった。
代わりに詰まっていたのは、消化されぬままの海産物。
アワビ、サザエ、ウニ、その他の貝類……
胃袋だけでなく、食道から口腔までぎっしりと海の幸が詰め込まれていた。
検視官は記録に「充満」と書いた。
食べたのではなく、無理やり押し込まれたような状態だったらしい。
さらに体には無数のひっかき傷。
人間や動物に引っかかれたとしか思えない。
だが、その爪痕はおかしかった。
普通なら四本、五本。
だが、遺体についていたのは六本、七本、八本……
しかもそれが極めて自然な並び方をしていたというのだ。
人間が両手の指を合わせて傷をつけても、必ず不自然な跡になる。
だがその遺体の傷には、不自然さがなかった。
まるで、本当に六本指や八本指の存在がそこにあったかのように。
検視官は最後にこう漏らしたらしい。
「動物学者に聞いてくれ。私にはもう判断できない」
***
事件はその後、揉み消された。
公的な記録には「溺死」とだけ残された。
だが度会さんは調査表を今も保管している。
わたしがそのコピーを見せてもらったのは一度きり。
書き込みのある写真、胃の内容物の詳細リスト、解剖医の手書きメモ。
紙の端に、度会さん自身が鉛筆で書き足していた言葉が忘れられない。
――「呼ばれたのか、喰われたのか」
わたしはその後、青森の地図を広げてみた。
問題のドライブインは、いまは廃業して跡地だけが残っている。
高速道路を走る車窓から、シャッターの錆びた倉庫がちらりと見える。
夜に通りがかると、不意に視線を感じる。
倉庫の奥から、まだ誰かがこちらを見ているような錯覚に襲われる。
運転手はなぜ、あの封じられた倉庫に足を踏み入れたのか。
なぜ瀬戸内の岩礁で死体となって発見されたのか。
六本以上の指を持つ何かに、あの男は引きずられ、そして食われたのか。
答えは永遠に出ない。
だが、わたしは今もあの話を思い出すたび、胃の奥に冷たいものを感じる。
倉庫のシャッターの向こうに、まだ口を開けて待っている何かがいるのではないか、と。
――度会さんの声が耳に残っている。
「これはな、俺の刑事人生で、いちばん気味の悪い事件だった」
わたしはその言葉を信じざるを得ない。
あれ以来、高速道路のドライブインで眠ることができなくなった。
どんなに疲れていても、必ずどこか明るい場所まで走ってしまう。
暗い倉庫に吸い込まれたまま、二度と帰ってこれないような気がするからだ。
――この話は、以上だ。
(完)