子どもの頃から、ずっと胸の奥に沈んでいた奇妙な記憶がある。
幻覚だったと思い込み、大人になるにつれて心の引き出しの奥底に押し込んでいたのだが、四ヶ月前、ある出来事をきっかけに、あの記憶がぐらぐらと浮かび上がってきた。
今日はそのことを語ろうと思う。
私は普通の人間だ。霊感もなければ、不思議な体験を好んで探すような人間でもない。
ただ、幼い頃、熱を出して眠れなくなった夜、あるいはふと目を覚ました夜中に、必ずと言っていいほど遭遇したものがある。
空中を漂う金色の魚。
初めて見たのは四歳か五歳のころだったはずだ。暗闇の寝室で、カーテンの隙間から月の光が差し込んでいた。布団の中で汗をかきながら体を丸めていると、天井の辺りにふわりと光が揺れた。
それは金色の帯のようであり、けれども次第に輪郭を持ち、魚のような形をとった。
細長く、不気味なまでに痩せ細った体。鋭い歯並びを備えた口。図鑑で調べたとき、深海魚のホウライエソに似ていると知って背筋がぞっとしたが、当時の私はむしろ美しいとさえ思った。
光の粒が鱗のようにきらめき、ゆっくりと泳ぐたび、部屋の空気が変わっていく。重く沈むようで、耳が詰まり、水中にいるかのように呼吸が難しくなる。
だが、恐怖心はなかった。子ども特有の無垢さゆえか、私はそれに魅了されていた。
なぜか私はその魚を「キンピラ」と呼んでいた。なぜそんな名を思いついたのかは今でもわからない。親に教えられた記憶もない。自分でも笑ってしまうような間の抜けた名前だが、私にとってはしっくりきた。
「キンピラ」
声に出して呼んでも、魚は反応しなかった。ただ、部屋の中をゆっくり泳ぎ、私の周囲をぐるぐると回るだけ。
そうした夜が幾度もあった。高熱にうなされる時ほど、キンピラは姿を現した気がする。
十歳になる頃には、それを見ることもなくなった。
最後にキンピラを見た日のことを、私は今も鮮明に覚えている。
その夜、私はぼんやりと天井を見上げていた。視界の端から金色の影がすうっと入り込み、気づけば頭上に浮かんでいた。私はうっとりと眺めていた。いつもと同じだと安心していた。
だが次の瞬間、キンピラがふいに動きを変え、私の顔へと真っ直ぐ近づいてきたのだ。
逃げる間もなく、口をこじ開けるようにして体内へ入り込んだ。
「……っ!」
息が詰まり、喉に異物感が走る。慌てて声をあげようとしたが、できなかった。
胃のあたりで、そいつは暴れ始めた。鋭い鰭が内臓を引っ掻くように感じられ、耐え難い痛みと吐き気が込み上げる。体の奥で水泡が弾けるような音が響き、私は必死に布団を掴んで耐えた。
やがて魚は気泡のように分裂し、無数の粒となって体内を駆け巡った。血管を通り、骨の隙間をすり抜け、毛穴の一つひとつから飛び出していくような感覚。
その瞬間、私は自分が溶けて散ってしまうのではないかと思った。
そして吐いた。胃の中のものを全部吐き出し、ぐったりと横たわった。
気づけば魚はいなくなっていた。それ以来、二度とキンピラを見ることはなかった。
――そうして年月が経ち、大人になった私は、あの記憶を「子どもの幻覚」と片づけていた。熱に浮かされ、頭の中で作り出した虚像にすぎない、と。
ところが四ヶ月前、友人の勧めでヒーリングを受けに行ったとき、忘れていたはずの記憶が突然蘇った。
目を閉じ、深く呼吸を繰り返していると、空気がずんと重くなった。耳が詰まり、あの幼い夜と同じ感覚に襲われる。背筋が凍った。
姿は見えなかったが、気配だけは確かに感じた。
「キンピラだ……」
長らく忘れていたその名前が、自然と口の中に浮かんだ。
ヒーリングが終わった後、ヒーラーが言った。
「あなたの周りに、金色の帯のようなものがゆっくりと浮遊しているのが見えました」
私は一瞬、言葉を失った。キンピラのことを話した覚えはない。それなのに、彼女は同じものを見たという。
それは悪いものではない、とヒーラーは笑った。けれど、私は安心できなかった。
あれは確かに、私の体に入り込み、暴れ、散っていった存在だ。
それ以来、気配を感じることはない。だが、夜ふと目を覚ますと、空気の重さを探してしまう。耳の奥の圧迫感を思い出してしまう。
あれは本当に魚だったのか。エネルギーの生命体だったのか。
ある人は龍と呼び、私はキンピラと名づけた。名前の違いに意味はない。形も姿も、人が勝手に脳内で変換したものにすぎないのかもしれない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
私はあの存在に飲み込まれた。体の内側にまで入り込まれた。
だから私は今でも恐れている。いつかまた、あの金色の魚が私の前に現れ、もう一度口から侵入してくるのではないかと。
そのとき、私は毛穴から散るのではなく、すべてを持ち去られてしまうのではないかと。
[出典:338 :本当にあった怖い名無し:2008/08/19(火) 00:06:20 ID:SNKJgZcJ0]