戦後の混乱がようやく収まりを見せ始めた頃、木々の深い緑に囲まれたとある地方の農村。
そこには、代々続く旧家があった。その屋敷の主となるべき跡取り息子が、ある日忽然と姿を消したという報せは、静かな村に重苦しい影を落とした。秋の収穫を間近に控えた、黄金色の稲穂が風に揺れる長閑な風景とは裏腹に、人々の心には得体の知れない不安が渦巻いていた。
村人総出での山狩りは、草木の一本一本を掻き分ける執拗なものだったが、息子の手がかりはおろか、争ったような痕跡すら見つからない。屋敷の古井戸も、村はずれの底なし沼と噂される池も、念入りに水が抜かれ、底が浚われた。しかし、そこに彼の姿はなかった。金の恨みか、女の影か。旧家の当主は、僅かな望みを託し、腕利きの者たちを雇い入れ、遠方にまで人を派遣して捜索させたが、まるで神隠しにでもあったかのように、息子の足取りはぷっつりと途絶えたままだった。季節が移ろい、木々の葉が赤や黄色に染まり始めた頃には、村人たちの間にも諦めの色が濃くなっていた。
ひと月という時間が、まるで悠久の刻のように流れ過ぎたある夜。屋敷の主夫婦が寝静まった頃、不意に階下から微かな物音が響いた。最初は気のせいかと思った。しかし、それは次第にはっきりとした声となり、床板を震わせるように屋敷全体に広がっていく。それは、呻きとも、嗚咽ともつかぬ、人の声だった。恐る恐る灯りを手に庭へ下り立った家人たちの目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。広大な屋敷の、薄暗い縁の下の暗がりから、泥と埃に塗れた人影が、もがき苦しむように転がり出てきたのだ。それは、まさしく失踪した跡取り息子その人だった。
しかし、その姿は変わり果てていた。頬はこけ、目は虚ろに宙を見つめ、焦点が合わない。彼は錯乱した状態で、意味不明な言葉を叫び続けていた。
「女房が……! ああ、子供たちが……!」
そう絶叫しながら、彼は震える指で、自分が這い出してきたばかりの床下を指差す。家人たちが恐る恐る懐中電灯の光を差し向けると、その奥の暗闇で、きらりと光るものが二つ、三つと動いた。それは、一組の狐の親子だった。親狐は鋭い牙を剥き出し、威嚇するように低く唸ると、数匹の子狐たちを促し、瞬く間に闇の中へと姿を消した。
息子はその後、地方都市の精神病院の一室に収容された。閉ざされた病室で、彼はぽつりぽつりと、悪夢のような体験を語り始めたのだった。
あの日、夕暮れが迫る屋敷の庭先で、彼は若い女がひとり、堰を切ったように泣いているのに気づいた。透き通るように白い肌、濡羽色の長い髪。その儚げな姿に、思わず声をかけた。
「どうかなされたのか」
女は伏せていた顔を上げ、涙に濡れた瞳で彼を見つめた。
「家に……大きな蛇が居座っていて、怖くて帰れないのです」
か細い声でそう訴える女を不憫に思った彼は、正義感に駆られた。
「それならば、私が助けて差し上げよう」
女は何度も頭を下げ、彼を案内するように先に立って歩き出した。いつしか屋敷の敷地を離れ、鬱蒼とした木々が迫る山道へと入っていく。それは、彼がこれまで一度も足を踏み入れたことのない、獣道のような細く険しい道だった。夕闇が迫り、鳥の声も途絶えた頃、女は小さな、しかしどこか懐かしいような佇まいの小屋の前で足を止めた。
小屋の中は薄暗く、ランプの灯りがぼんやりと周囲を照らしていた。女が指差す先には、確かに太い蛇が、小屋の柱に鎌首をもたげ、とぐろを巻いていた。彼は近くにあった手頃な石を掴むと、一息に蛇の頭を打ち砕いた。蛇がぐったりと動かなくなるのを見届けると、女は安堵のため息をつき、彼に深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。どうか、お礼に粗末ですが料理と酒を召し上がってください」
その申し出を、彼は断ることができなかった。女が手際よく用意した山の幸を使った料理は素朴ながらも滋味深く、酌んでくれる酒は不思議と五臓六腑に染み渡った。酔いが回り、心地よい微睡(まどろみ)に包まれた彼に、女は泊まっていくよう優しく勧めた。
明かりが消され、暗闇が二人を包んでから、どれほどの時間が経っただろうか。静寂の中、女が囁くように話しかけてきた。
「もう、おやすみになりましたか……?」
彼は返事をせず、息を潜めた。やがて、女がそっと布団から抜け出す気配がした。しゅるしゅる、と絹ずれのような、着物を脱ぐ微かな音。そして、ふわりと温かく、柔らかな何かが、彼の冷えた身体の脇にするりと滑り込んできた。それは、抗いがたいほどに甘美な誘惑だった。
翌朝、小鳥のさえずりで目を覚ますと、女はもう甲斐甲斐しく朝餉の支度をしていた。
「もう少し、ここにいてはいただけませんか」
その潤んだ瞳で見つめられ、彼は頷くしかなかった。それから、十日が過ぎ、さらに一週間が過ぎた。時間の感覚は曖昧になり、まるで夢の中にいるようだった。女は昼間になるとどこかへ働きに出かけ、夜はランプの灯りの下で、遅くまでこまごまとした内職のような仕事をしている。その間、彼は小屋の周りをぶらぶらと散策したり、縁側でうたた寝をしたりして過ごした。何もせずとも、女は文句一つ言わず、彼に尽くしてくれた。そして夜、明かりを消した後は、毎日のように女の温もりを求め、深く交わった。
「私の家が……恋しいとは思われませんか」
ある夜、女がふと尋ねた。
「そんなことはない。お前さえいれば、このままずっと、ここにいたいくらいだ」
彼は本心からそう答え、女の華奢な体を強く抱き寄せた。その生活は、彼にとって満ち足りたものだった。旧家の跡取りとしての重圧も、煩わしい人間関係も、ここにはない。ただ、女の愛情と献身だけがあった。
季節が何度か巡り、半年、一年と歳月が流れたように感じられた頃。いつものように暗闇の中で女の体に触れようとした彼の手を、女がそっと掴み、自身の下腹部へと導いた。
「……孕みました」
小さな、しかし確かな声で、女はそう告げた。そして、彼の目を見つめて言った。
「もう、一生、私とこの子たちから離れないでくださいまし」
「離れるものか。必ず、お前たちを守り抜く」
彼は力強く誓った。その言葉に偽りはなかった。
それから、さらに長い時間が流れた。男の記憶では、十年ほどは経っただろうか。三人の子供が生まれ、小屋は賑やかになった。子供たちは母親によく似て、利発で愛らしかった。女は相変わらずよく働き、彼と子供たちを養い続けた。男は、いつしかこの奇妙な生活に完全に馴染み、外の世界のことなど忘れかけていた。
しかし、ある夜のことだった。ふと、彼は故郷の屋敷の庭の柿の木を思い出した。そして、何の前触れもなく、呟いてしまったのだ。
「一度……家に帰ってみたい」
その瞬間、それまで穏やかだった女の表情が一変した。
「ずっと一緒にいると、そうおっしゃったではありませんか!」
鋭い声でなじる女に、彼は怯みながらも懇願した。
「いや、ほんの少しでいいのだ。すぐに戻ってくる。どうしても、一度帰ってみたいのだ」
その言葉が、女の心の箍(たが)を外したのだろうか。女は突然、獣のような甲高い声で怒り狂った。
「そんなに行きたいのなら、とっとと出て行くがいい! その代わり、二度とこの家の敷居を跨ぐことは許さぬ!」
次の瞬間、彼は強い力で土間に突き落とされた。何が起こったのか理解できないまま見上げると、眠っていたはずの子供たちが、いつの間にか母親の後ろに三日月形に並び、冷たい目で見下ろしている。
皆の様子がおかしい。暗闇の中で、彼らの目が爛々と光っている。口元が裂け、鋭い歯が剥き出しになっている。そして、強烈な獣の匂いが、彼の鼻腔を突き刺した。
恐怖に駆られた男は、我武者羅に小屋を飛び出し、暗い森の中を転がるように逃げた。背後からは、子供たちのものとは思えない、甲高い笑い声が追いかけてくるようだった。どれだけ走っただろうか。意識が朦朧とし、足がもつれて倒れ込んだ。そして、気がつくと、彼は白い天井の見える病院のベッドの上にいたのだ。
村の者たちは、彼が狐に憑かれたのだと噂した。山で道に迷い、狐の幻術にかかって隠れ住んでいたのだと。しかし、病院の医師は、そんな非科学的な話を一笑に付した。長期の失踪による精神的な錯乱と栄養失調。おそらく昼間は屋敷の床下に潜み、夜中にどこかから食べ物を盗み出して飢えを凌いでいたのだろうと。それが病人の語る荒唐無稽な妄想と結びついたのだ、と。
しかし、その合理的な診断では説明のつかない奇妙な事実が、いくつか残されていた。
まず、ひと月もの間、ろくな食事もせずに床下で暮らしていたはずの男の体は、痩せ衰えるどころか、むしろ失踪前よりもふっくらと肉付きが良くなっていた。
そして、発見時に彼が着ていた古びたシャツ。それは紛れもなく、彼が失踪した日に着ていたものと同じだった。だが、泥や埃に塗れてはいたものの、まるで洗い立てのように糊がきいており、ひと月もの間、着の身着のままで過ごした者のものとは到底思えなかったのだ。
さらに不可解なことに、そのシャツの背中には、いつの間にかできた小さな鉤裂きがあった。そして、その鉤裂きには、驚くほど細かく、丁寧な繕いが施されていた。それは、まるで愛する者の身を案じる、優しい手によって施されたかのような、温もりのある繕いだった……。
(了)