戦後の混乱がようやく薄れ始めた頃、山と田に囲まれた小さな農村に、代々続く旧家があった。
秋の収穫を目前に控え、黄金色の稲穂が風に揺れる静かな季節だったが、その屋敷だけは重苦しい空気に沈んでいた。跡取り息子が、ある夕暮れを境に姿を消したのだ。
山狩りは執拗を極めた。屋敷の古井戸も、村はずれの池も、水を抜き、底をさらった。争った形跡はなく、血も衣服も見つからない。足跡は屋敷の庭先で途切れていた。神隠しか、と誰かが囁いたが、当主は否定した。腕利きの者を雇い、近隣の町にまで人を出した。それでも、行方は知れなかった。
ひと月が過ぎた夜のことだ。屋敷の主夫婦が寝静まった頃、階下で物音がした。最初は風かと思われた。しかし、板の下で何かが這うような、乾いた擦過音が続く。やがて、押し殺した呻き声が混じった。灯りを手に縁側へ出ると、床下の暗がりから、泥にまみれた人影が転がり出た。
跡取り息子だった。
頬はこけているはずなのに、肌は妙に艶があり、目は焦点を結ばない。彼は震えながら床下を指差し、「女房が」「子どもが」と繰り返した。懐中電灯を差し向けると、闇の奥で何かが動いた。光を受けて、複数の目が一瞬だけ光り、すぐに消えた。獣の匂いが、確かにした。だが、何がいたのかは、誰もはっきりとは言えなかった。
息子はほどなく地方都市の病院に移された。医師は栄養失調と錯乱と診断したが、彼の体は不自然にふっくらしていた。ひと月も床下で暮らした者の肉付きではなかった。失踪当日のシャツも、泥に汚れてはいるが、布地はぱりりとしている。背中の小さな裂け目には、細い糸で丁寧な繕いが施されていた。誰が縫ったのかは、分からない。
閉ざされた病室で、彼は断片的に語った。
夕暮れの庭先で、若い女が泣いていた。白い肌に、濡れたような黒髪。家に大きな蛇がいると言う。怖くて入れないのだと。彼は不憫に思い、案内させた。いつの間にか山道へ入り、獣道を抜け、小さな小屋に辿り着いた。
中には確かに太い蛇がいた。彼は石で打ち砕いた。女は礼を言い、酒と料理を勧めた。山の幸は温かく、酒は身体の奥まで沁みた。泊まっていくよう言われ、彼は頷いた。
夜、女は布団から抜け出し、戻ってきた。衣擦れの音。温かい体温。抗いがたい柔らかさ。彼は目を閉じた。
翌朝も、その次の日も、女は優しかった。彼は小屋の周りを歩き、縁側で眠った。外の世界のことは、遠のいた。時間は曖昧になった。女は昼間いないこともあったが、夜には必ず戻り、灯りの下で細かな針仕事をしていた。糸を通す音が、かすかに聞こえた。
ある夜、女は彼の手を取り、自身の腹に当てた。「孕みました」と言った。彼は守ると誓った。子が生まれ、また生まれた。小屋は賑やかになった。子どもたちは利発で、夜になると目がよく見えるのだと笑った。彼は疑わなかった。
年月が過ぎた感覚のある夜、ふと、故郷の庭の柿の木を思い出した。「一度帰りたい」と口にした瞬間、女の顔が変わった。鋭い声が飛んだ。出て行くなら二度と戻るな、と。
次の瞬間、彼は土間に叩きつけられていた。子どもたちが暗がりに並び、目だけが光った。獣の匂いが濃くなる。彼は森へ逃げた。背後で、甲高い笑い声が重なった。足がもつれ、倒れ、意識が途切れた。
目覚めたのは病院だった。
彼は、あの小屋がどこにあったのか説明できない。山の形も、川の音も、言葉にしようとすると崩れる。ただ、夜の針仕事の音だけは、はっきり覚えているという。糸が布をすくう、細い音。子どもたちが眠る横で、女が黙々と縫っていた。
屋敷の床下からは、その後も時折、乾いた擦過音が聞こえたという。板の隙間から、細い糸くずが出ていたことがあった。誰が掃いたのかは分からない。息子の部屋に保管されていたあのシャツは、今も箱にしまわれている。裂け目の繕いは、年月が経っても解けない。
医師は最後まで、床下での潜伏と妄想の産物だと説明した。だが、あの夜、縁の下で光った目の数を、誰も一致して言えない。二つだったか、三つだったか。それ以上だったのか。
屋敷は今も残っている。秋になると、床下から、かすかな糸の匂いがするという。
(了)