この話を彼が打ち明けたのは、酒席でも気が緩んだ夜でもなかった。
帰省した折、台所で湯気がくゆるのをぼんやり眺めていたとき、ふいに思い出したように口を開いたのだと、自分に語った人がいた。
彼によれば、いまでも年に数度、その夜の「気配」が背筋をなぞることがあるらしい。
当時、彼は小学生の終わり頃。
家は古い木造で、冬の夜は床板の冷えが足裏に残るほどだったという。廊下に灯った常夜灯だけが薄い橙の芯になり、部屋に置いた学習机の端を鈍く照らしていた。雨も風もない夜だったのに、空気にざらつく粒子が混じるような静けさがあったと、彼は語った。
布団にくぐり、兄と背中合わせで寝ていた。
そのとき、肌をかすめるような細い風を感じ、目蓋の裏に入りこんだ眠気がぱきりと割れたという。
最初に気づいたのは、布団の端を軽く踏むような音だった。ふたつ、みっつ。木の床を走り抜ける軽い足裏。
目を凝らすと、常夜灯に浮かび上がる影があった。輪郭は幼い。肩ほどの高さ。走るたびに光を散らすように袖が揺れる。
彼が語るところでは、その影はひどく馴染み深い形をしていたという。
いや、形だけではない。気配そのものが、胸の奥の沈んだ引き出しを無理やりこじ開けるように、古い記憶を逆流させたらしい。
幼児特有の丸い足取り。鼻にかかる浅い呼吸。布地のこすれる音さえ耳裏で反響した。
彼は兄を起こそうと腕を伸ばしたが、その途中で固まったという。影の顔が、ちょうど机の脚のあたりに回り込み、光の角度に乗って浮かび上がったからだ。
幼い顔。
前髪をまっすぐ切りそろえたような形。
青い半纏の襟に押しつけられて少しくしゃりとした頬。
どこか見覚えのある癖のある瞬き。
それらがぜんぶ、かつての“彼本人”と一致してしまったのだと。
彼はその場では声も出なかったらしい。
ただ、目の奥がちりつき、布団の繊維が過剰に指先へ張り付くほど汗をかいていたと話した。
まばたき一つでその影がほどけてしまう気がして、しかし目を閉じればそれが顔元に寄ってしまいそうで、どちらも選べず体だけが強張っていたという。
そんなとき、兄が寝返りを打ち、ため息とも唸りともつかぬ声で「うるさいな……」と起き上がった。
兄は影を真正面から見て、半分眠った声で言ったらしい。
「おい、〇〇、いいかげん寝え」
その呼びかけは明らかに“彼”に向けていたという。暗がりの中、兄の視線は幼い姿を正確に捉えていた。
兄が枕に頭を戻した一瞬、影は消えた。
足音も、空気の揺れも、布地の擦れも、すべてが唐突に途切れた。
常夜灯の光だけが部屋に残っていた。火が吸い込まれた後のように、空気に小さな沈黙が降りたと彼は語った。
そこで彼の話はいったん区切れた。
前夜のように思い出すと胸がざらつく、と彼は笑いながら言ったが、笑っているのは口元だけで、目の奥には硬い影があった。
続きの部分をどう語るか迷っているように見えたが、やがて湯呑みを置く音とともに話を再開した。
影が消えた直後、我に返った彼は兄を揺さぶり起こしたという。
最初は兄も朦朧としていたが、急に目を見開き、素っ頓狂な声で「……さっき、おまえ子供やなかったか?」と言ったらしい。
その言葉が引き金になって、兄も自分の口を制御できないまま「え、誰やったん? あれ誰や!」と、まるで思考の順番がめちゃくちゃになったように叫んだ。
彼も必死に返したという。「小さい頃の俺やった! 青い半纏の……あのまんまやった!」と。
兄も同じように青い半纏を見ていたらしい。
それどころか、髪型、走る癖、瞬きの速さまで「昔のおまえそっくりやった」と言い張った。
ふたりは真夜中に親の部屋へ駆け込み、しかし親からは「寝ぼけただけ」とまともに取り合ってもらえなかったという。
その後、しばらく兄弟は親の部屋で寝るようになった。
影は再び現れなかったが、兄はあるとき「なあ、あれ、まだ家におるんちゃうか」とぽつりと漏らしたらしい。
彼自身も、中学に上がる頃まで、家のどこかに“もう一人の自分”が潜んでいる感覚を捨てきれなかったと語った。
姿は見えなくても、夜の廊下の空気に小さな揺れがあると、決まって幼い自分の足音を思い出すのだという。
そして話の最後に、彼は奇妙なことを付け足した。
「兄貴はいまでも、時々言うんよ。あの日の“子どもの俺”…息してたって。胸、上下してたって」
その証言だけは、彼自身、いまだに信じたくないらしい。
けれど兄は、三十に近くなった今も「見間違えるはずがない」と言い切るという。
彼の語りには、あの夜を境に家の空気が「静かすぎる静けさ」に変わった時期があったと続く。
廊下を歩くと、わずかに埃が舞うだけで音が吸い込まれる。台所の蛇口をひねると水音がやけに遠い。家そのものの呼吸が浅くなったような、そんな感じがしたらしい。
家族は誰もそれを口にしなかったが、兄と彼だけはすぐ気付いた。まるで、家のどこかに“ひとり分の気配”が新しく生まれ、それが薄い膜のように全体に張り付いているのだと。
兄は時折廊下に出ては、耳を澄ませる癖がついたという。
ある夜、兄がぽそりと「また廊下スリッパ鳴った」と彼に漏らした。それは家族の誰の歩調とも違う、小刻みな歩幅だったという。
しかし彼が行ってみると、廊下には何もいない。空気だけがすこし凹んだような気配を残していた。
その頃から、彼は自室の引き出しを妙に気にするようになった。
机の二段目、古い教科書やノートを無造作に詰め込んだ場所だ。
ふたを引くたび、紙の匂いに混じって、昔お気に入りだった半纏の綿の匂いがしたという。半纏はとっくに処分してあり、家になかったはずなのに。
気のせいだと思いながらも、その匂いは数日ごとに強くなる。ある晩など、半纏の襟を鼻先に押しつけられたような、生温い綿の湿度まで感じたらしい。
兄もまた、別の形で“あの日の子ども”を思い出していた。
彼の話では、兄が夜中に洗面所で歯を磨いていると、鏡の端をふっと影が横切ったという。顔を上げると何もいない。
だが、その直後、洗面台の下の床に、小さな足裏の形がぼんやり曇っていた。まるで湯上がりの子どもが走り回ったような曇り方だったと。
兄はその日から、家の中でやたらとドアを閉めて回るようになったという。
彼自身は姿を見ていない。それが逆に、胸のどこかをじくじくと刺し続けた。
兄は見た。
あの夜の子どもも、兄に反応した。
なのに、当の彼だけは何も見えない。
この話を聞いた私に語り手は「自分のはずなのに、自分がいちばん蚊帳の外やった」と笑ったが、その笑いはひどく乾いていた。
ある晩、決定的な出来事が起きたという。
夜更け、兄弟はいつものように親の部屋で寝ていた。
雨も風もない夜だったのに、部屋の中だけに“かすかな水音”が漂った。ぽつ、ぽつ、と遠い井戸の底で水が落ちるような音。
兄が気付いて身を起こすと、その音は廊下から続いていたらしい。
兄は目で合図し、彼とともにそっと襖を開けた。
廊下には誰もいなかった。
ただ、床板に沿って点々と湿りが残り、それが小さな裸足の形を結んでいたという。
その足跡は、彼らの部屋とは逆方向、彼らがかつて使っていた“兄弟の旧寝室”へ向かっていた。
兄がごくりと唾を飲む音が、やけに大きく廊下に響いた。
足跡は旧寝室の前で途切れていた。
部屋の戸は、当時のまま閉め切られている。
兄が手を伸ばし、ゆっくり戸を開けた。
中は、ひどく乾いた匂いがしたらしい。
家具はそのまま。机も本棚も、幼い頃の姿をほぼ残したまま。
しかし、部屋の中央だけが、ぽっかりと“空気の穴”のように感じられたという。温度が一段下がり、空気が薄く沈んでいる。
そこで、兄が呟いたという。
「ここ……誰か座っとったやろ」
兄が指した場所の床板だけ、かすかに沈んだ跡があったらしい。
それは人の体重というより、幼い子どもが膝を抱えて座るときの形に近かった。
それを見た瞬間、彼の鼻先に、ふっと半纏の匂いが寄ったという。
懐かしさと同時に、胸の奥がざわりと逆撫でされるような匂いだった。
彼はとっさに戸を閉めた。
兄も顔を強ばらせたまま黙っていた。
その日を境に、家の“余分な気配”は薄れていったという。
足音も、湿りも、綿の匂いも消えた。
まるで、何かが満足したように、役目を終えたように。
話を締めくくる前に、彼はぽつりと奇妙なことを言った。
「うちの旧寝室の壁、見たことある?」
私は首を振った。
すると彼は続けた。
「兄貴と気付いたんやけど、小さい頃、おれ……あそこに背丈の線、何本も描いとってな。年ごとに増えていくやつ」
そこまでは普通だ。
だが彼は言う。
「最近見たら……線が、ひとつ増えとったんよ。おかしいやろ。描いた覚えなんて、あるわけないのに」
私は冗談だと思った。
しかし彼は、声を落として続けた。
「あの日の線より、少し低かった。だから兄貴が言ったんや。『これ……誰の身長や』って。
そのとき気付いた。あの夜走ってた“あれ”、背丈が俺の記憶より……少しだけ、高かった気がするって」
彼は、その線を消せずにいるという。
消してしまうと、何か“戻る場所”を奪ってしまう気がして。
それ以来、旧寝室には誰も入らなくなった。
話の最後、彼は静かに付け足した。
「おかしいんよな。あれが俺の昔の姿やったなら、もう成長なんかせえへんはずやのに……」
彼は言って、しばらく黙った。
やがて小さく笑った。
「でもな、身長線が増えるってことは……誰かが今も“あそこで育ってる”ってことなんやろ」
それを聞いた瞬間、私はぞくりとした。
彼の語りはそこで終わったが、後日、彼の兄にも同じ話を確かめたところ、兄は妙にあっさりとした顔でこう言った。
「旧寝室の線? ああ……あれ、増えるで。たまに伸びとる」
兄は、まるで当たり前のように言ったという。
彼の家のあの部屋には、今も誰も近づかないらしい。
けれど夜の静けさが深く沈むと、廊下の奥から「トタ、トタ」と走り回る小さな足裏の音を家族の誰かが聞くことがあるという。
それが誰なのか、誰の“成長”なのか、確かめようとする者はいない。
ただひとつだけ、彼らは共通して言う。
「あの子は、まだ家のどこかにおる。
昔の俺の姿かどうかは、もう分からんけど……あれ、いまの背丈、たぶん……中学生くらいやと思う」
そう語った彼自身も、時折こう付け足す。
「――もしかしたら、あれが俺やなくて、“俺になるはずやった誰か”なんかもしれん」
その言葉だけが、妙に耳に残った。
[出典:607 :本当にあった怖い名無し:2012/06/25(月) 02:14:35.73 ID:j3nuVv450]