子供の頃、夏休みになると必ず祖母の家に預けられていた。
山奥の寒村に建つ古い木造家屋で、裏手には人を拒むように巨大な山が聳えていた。鬱蒼とした木々に覆われ、どこか湿り気を帯びた匂いが漂い、薄曇りの日には山全体が生き物のように息をしているように思えた。
その山には「イケモ様」と呼ばれる神を祀った小さな祠があった。
祖母の家のまわりには子供の遊び場らしいものは何ひとつ無く、退屈を持て余すと祖父と二人で祠の近くにある池へ釣りに出かけた。水面はいつも濁っていて底は見えない。魚影もほとんどないのに、祖父は長い時間じっと竿を垂れていた。私は釣れることよりも、祖父と並んで池を眺める時間が好きだった。
ある日、祖父母が町へ買い物に出かけ、私は一人で留守番をすることになった。やることもなく、結局釣りに出かけることにしたのだが、その日、私は禁じられていた抜け道を通った。
抜け道は、獣道にも満たない細い隙間だった。低い笹と石で入り口は囲われ、わざと塞いであるように見えた。子供の背丈ならぎりぎり通れるくらいで、となりのトトロの映画でメイがくぐり抜けた穴を思わせた。祖父母からは絶対に通るなと強く言われていたが、理由は教えてくれなかった。
そのせいで逆に惹かれたのだ。石が並ぶ様子は自然ではなく、人工的で、誰かが結界のように置いたものに見えた。だが当時の私はただ面倒な遠回りを省きたいだけで、何も気にせず潜り込んだ。
小道は思った以上に長く、湿った土が足にまとわりつき、薄暗さが増していく。二十分ほど歩いてようやく池に出た時には、ひどく汗をかいていた。
私は竿を伸ばし、ひとり釣りを始めた。日差しは強く、蝉の声が耳を塞ぐように響く。時計を持っていなかったが、一時間ほどは過ぎていただろう。
その時、池の対岸に人影が揺らいだ気がした。木々の隙間から、誰かが立ってこちらを見ている。
声も聞こえた。「あきよへほ、あきよへほ」……意味の分からない調子の歌のような響き。
普段人など来ない場所だったから、私は気になって近づいてみた。しかしそこには誰もいなかった。鳥の羽音すらしない。風も無い。水面が小さく揺れただけで、あとは不自然なほど静まり返っていた。
気のせいかと思い、再び竿を構え直した瞬間、エンジン音が響いた。祖父の軽トラックだった。
迎えに来てくれたのだと安心し、私は荷物をまとめようとした。しかし祖父は猛スピードで突っ込むように車を寄せ、降りるなり私を乱暴に押し込んだ。釣竿もお気に入りの水筒も地面に置き去りのままだった。
祖父は白い布を頭から被せ、「絶対に外すな」と怒鳴った。車が走る間、祖父は低い声で何かを延々と唱えていた。耳慣れぬ言葉で、意味は分からない。ただ調子だけが呪文のように不気味に繰り返された。
家に戻ると、祖母が待ち構えていた。祖父は私の体を覆っていた布を自分の頭に被り、祖母は新しい布を私にかけた。ふと目をやると、家の外には近所の人々が集まり、家全体が巨大な白布で覆われていた。まるで喪屋のような光景だった。あれほど大きな布をどこで手に入れたのかと訝しんだが、今思えば最初からこの事態を想定して用意されていたのだろう。
私は風呂に入れられ、次に通されたのは広間だった。そこには見知らぬ老人が待っており、淡々と質問を浴びせてきた。
「どの道を通った」「どれほど歩いた」……答えるたびに老人の顔は硬くなり、周囲の大人たちは互いに目配せをした。
やがて老人は語った。
イケモ様は池を守る神だが、幼い子の姿をしており、一人でいるのを嫌った。昔は村が生贄として子供を捧げていた。抜け道は、その子供を連れて行くために用意された道であった。やがて生贄の風習は絶えたが、イケモ様は寂しさに耐えられず、山を下りては子を攫うようになった。攫った子が逃げぬように足の筋を断ち切り、傍に縛り付けた、と。
荒唐無稽な話だと笑い飛ばそうとしたが、その時、自分の足を見て凍りついた。
右脚の脛の裏が裂け、血がにじんでいたのだ。痛みは無い。ただ赤黒い筋が皮膚を割るように走っていた。
その瞬間、老人が鋭い声を上げた。白布を被った人々が一斉に私を囲み、祖母は小さな札のようなものを傷口に押し当てた。冷たい痺れの感覚が広がり、血はすぐに止まった。
「ここには置けん」老人は低く言い、急遽、私は村を出されることになった。
再び布を頭から被され、祖父のトラックに押し込まれる。布は、イケモ様には見えないのだという。だが家の中で足を切られたのは、覆いの布が完全ではなかったからだと。
トラックの窓から見たのは奇妙な光景だった。車体の黒い部分はすべて薄い紙で覆われ、荷台には菓子が山積みになっていた。神への供え物らしいが、見た目は滑稽でしかなかった。
走行中、私は何も起こらないことに逆に不安を覚えた。退屈さに耐えかねて、思わず窓を少し開けてしまった。その時だった。
外から声がした。「きよへ」……確かにそう聞こえた。
祖父は何事もない顔で運転を続けている。気のせいかと思ったが、今度は耳元で囁かれた。
「きよへ」
瞬間、全身の力が抜け、意識が暗闇に沈んだ。
目が覚めると、祖母の家の布団の中だった。祖母は夢を見ていただけだと諭した。だが釣竿も水筒も消えたままで、戻ることはなかった。
右足の傷跡は今も残っている。新しい傷のように赤く、何年経っても癒えることがない。
あれが夢であるはずがないと、私は思っている。
[出典:132 本当にあった怖い名無し 2012/06/01(金) 20:01:59.77 ID:TwSlcpWx0]