五年間付き合った女がいた。
別れた理由は単純だ。結婚の話が具体的になったとき、俺は首を縦に振らなかった。それだけのことだ。
就職したばかりで、収入も不安定だった。彼女は「一緒に働けばいい」と言ったが、俺は頷かなかった。養えるようになってからにしたい、と言った。彼女は待てない、と言った。言葉は交わしたが、どちらも引かなかった。
最後は、ひどい喧嘩だった。愛しているとか、失望したとか、そんな言葉が飛び交った気がするが、正確には覚えていない。ただ、「二度と顔も見たくない」と彼女が言い、ドアが閉まった音だけは、はっきり覚えている。
半年後、電話が鳴った。
着信表示に彼女の名前が出ていた。何度も。最初は出なかった。次の日も、その次の日も鳴り続けた。三十件を超えたあたりで、無視するほうが疲れた。
通話ボタンを押した瞬間、耳を裂くような声が飛び込んできた。
「なんで出ないのよ!」
怒鳴り声の奥に、泣き声が混じっていた。やり直したい、と彼女は言った。愛している、と繰り返した。俺は短く、「戻る気はない」と答えた。
沈黙のあと、彼女は急に笑った。
「いま、どこにいるの?」
自宅だと答えると、「そこから自販機が見えるよね」と言った。
窓の外を見た。アパートの前の自販機。その横に、女が立っていた。こちらを見上げている。街灯に照らされた顔は、涙で濡れているのに、口元だけが笑っていた。
カーテンを閉めた。
それでも電話は切れなかった。受話器の向こうで、彼女の呼吸が続いていた。俺は何も言わずに通話を終えた。
その夜、眠れなかった。
朝、恐る恐るカーテンを開けると、自販機の前には誰もいなかった。安堵しかけたとき、視界の端に違和感があった。向かいの細い路地。そこに、彼女が立っていた。
見上げている。
距離は十メートルもない。目が合った気がした。唇が動いた。
「おはよう」
声は聞こえなかったが、確かにそう読めた。
四日間、彼女はほとんど動かなかった。昼も夜も、立ったままこちらを見ていた。近所の住人は誰も騒がなかった。通報するべきか迷ったが、窓越しに立っているだけの人間を理由にするのは、どこかためらわれた。
五日目の夜、姿は消えていた。
玄関の新聞受けが、わずかに開いていた。普段は内側からしっかり閉めているはずだった。覗き込むと、暗い穴の奥に、何かが詰まっているのが見えた。
紙くずのようだった。
指ではなかった。血もなかった。ただ、柔らかいものが押し込まれた痕跡だけが残っていた。新聞は届いていないのに、内側から湿った匂いがした。
警察を呼んだ。事情を説明したが、彼女の姿はどこにもなかった。周囲の聞き込みでも、「そんな女は見ていない」と言われた。俺が見た四日間は、俺の証言以外に証拠がなかった。
それから間もなく、共通の知人から連絡があった。彼女が亡くなったらしい、と。
詳しい状況は聞かなかった。事故か、自殺か、それとも別の理由か。俺は「そうか」とだけ答えた。電話を切ったあと、部屋の中は妙に静かだった。
しばらくして、引っ越した。
新しい部屋は三階で、前より見晴らしがいい。自販機も、細い路地もない。玄関もオートロックだ。あの夜のことを思い出す回数は、次第に減っていった。
新しい恋人ができた。
その晩、久しぶりに玄関のほうから音がした。
カタン。
新聞受けが揺れるような、小さな音だった。ここには新聞受けはない。ドアは分厚い鉄製で、外側に隙間はない。
ぽとん。
何かが落ちるような音が続いた。
確認しても、何もない。廊下にも、ポストにも、誰もいない。
音は、恋人が帰った夜に止んだ。しばらくして別れたときも、何も起きなかった。
だが、また誰かと親しくなり、部屋に招いた夜、同じ音がした。
カタン。ぽとん。
規則的でも、不規則でもない。ただ、こちらが「始めよう」とした瞬間にだけ鳴る。
扉の向こうに、誰かがいるのかどうかは、確認していない。
開ければ、終わるかもしれない。あるいは、始まるかもしれない。
今は恋人を作らない。
結婚の予定もない。
扉の向こうで、小さな何かが、自分のかたちを保ったまま、待っている気がするからだ。
あれが彼女なのか、それとも、俺があの夜に閉めたものなのかは、わからない。
ただ、音だけは、確かに続いている。
[出典:800:別れた女1:2007/03/29(木)02:39:45ID:1w4PBrF30]