三年前の冬のことだ。いまでも誰にも話していない。
話したところで理解されない。いや、理解されないどころか、病院を勧められるのが落ちだろう。
だから黙ってきた。
だが、沈黙しているあいだも、あの人は消えなかった。俺の中では、いまもはっきりとそこにいる。
同じ職場にいた女性。仮にAとする。
三十代後半。中途入社。明るく、気配りができ、場の空気を読むのがうまい。癖の強い連中が集まる部署で、陰口が飛び交うことも珍しくなかったが、Aの悪口だけは一度も聞いたことがなかった。誰と組んでも摩擦を起こさない。そんな人間が、ある日を境に、跡形もなく消えた。
最初は、特別な存在ではなかった。
仕事で同じ案件を担当するようになり、自然と会話が増えた。昼休みにコンビニへ行くついでに雑談をする。資料の確認で隣に立つ。些細なやり取りが積み重なっていった。
既婚者で、子どもはいないと言っていた。左手の薬指に細い指輪が光っていた。俺はそれを見ないふりをしながら、勝手に期待していた。期待というより、隙を探していたのかもしれない。
ある金曜日、仕事が押して残業になった。ビルの外に出ると、空気は刺すように冷たかった。駐車場まで並んで歩く。人影はない。自分の足音と、彼女のヒールの音だけが夜の路面に響いていた。
軽い調子で訊いた。
「土日は何するんですか」
誘うつもりだった。予定がなければ、食事でもと。
Aは迷いなく答えた。
「久しぶりに旦那と出かけるの。紅葉、ちょうど見頃なんだって」
目が本当に嬉しそうだった。
その瞬間、自分がどれだけ勝手なことを考えていたのかを思い知った。俺は笑って「いいですね」と返した。Aは逆に訊いてきた。
「○○くんは?」
「ゲームとか、車いじりくらいです」
「彼女いないの?」
「いません」
「イケメンなのに、もったいないな」
他愛もない会話だった。寒さに耐えながら立ち話をして、「また月曜に」と別れた。
それが、最後だった。
月曜日。いつもより早く出社した。Aの席は空だった。体調不良かと思った。始業のチャイムが鳴っても来ない。朝礼で名前は呼ばれなかった。
違和感が、皮膚の内側にじわりと広がった。
隣のBに訊いた。
「Aさん、休みですか」
Bは眉をひそめた。
「Aさんって?」
冗談だと思った。だがBの目は本気だった。知らない、という目だ。
係長にも訊いた。
「Aのことですが」
「誰だ?」
胸の奥が冷えた。
Aの席へ向かった。引き出しを開けた。空だった。私物どころか、使用していたはずの備品すら置かれていない。そこには、最初から誰もいなかったかのような整然とした机があるだけだった。
社内メールを検索した。Aの名前はヒットしない。グループメールの履歴にもない。送信済み、受信、アーカイブ、すべて確認したが、痕跡はゼロだった。
取引先に電話をかけた。Aの名前を出すと、沈黙のあと「そのような担当者はいません」と言われた。彼女が主担当だったはずの案件は、最初から俺一人の担当という記録に書き換わっていた。
恐怖より先に、孤立感がきた。
世界が一斉に口裏を合わせているのか。それとも、俺の頭の中だけが狂っているのか。
数週間、眠れなかった。病院に行くことも考えた。だが、決定的におかしいのは俺ではないと、言い切れない証拠があった。
一枚のメモ。
俺のデスクに置かれていた業務連絡の走り書き。「○○、よろしくお願いします。A」と黒いボールペンで書かれている。丸みのある癖字。間違いなく彼女の筆跡だ。
そのメモだけは消えなかった。
会社に持っていけば、何かが変わるかもしれない。だが、見せた瞬間に、それも消える気がしている。だから自宅の引き出しの奥にしまったままだ。三年、開けていない。
最近、奇妙なことに気づいた。
メモの端が、わずかに白くなっている。インクが、前より薄い気がする。気のせいかもしれない。だが、確実に「A」という文字の線が、以前より細い。
もし、あのメモが完全に白紙になったら。
そのとき、俺はどうなるのか。
Aが最初からいなかったことになるのか。それとも、俺がいなかったことになるのか。
あの冬の夜の、ヒールの音と笑い声だけが、いまも鮮明だ。
世界は、あまりにも静かに、人を消す。
そして次が自分でないと、誰が言える。
[出典:606 :本当にあった怖い名無し:2021/10/16(土) 22:17:02.44 ID:ogfMIv+V0.net]