この話はこれまで誰にも話したことがない。掲示板の匿名性があるからこそ語れる話だ。長くなるが、ぜひ聞いてほしい。
大学最後の夏、サークル仲間と伊豆大島へ行った。仲間の一人、Uの実家が民宿を営んでおり、その縁で宿泊場所が確保された。初日と二日目は王の浜や弘法浜で泳ぎまくり、遊び尽くした。三日目には三原山を中心に観光スポットを巡った。その日の夜の出来事である。
疲れが溜まっていたが、なぜか怪談話大会をする流れになった。中心人物は、もちろん地元出身のUだ。夜10時過ぎ、6人で借りた大部屋に車座になり、話が始まった。時計が12時を回る頃には、全員がUの話にすっかり引き込まれていた。やはり地元の怪談話は強い。例えば「ある人がトイレに入ると…」のようなありふれた話よりも、今自分たちがいる島を舞台とした怪談には、圧倒的な臨場感がある。
そのとき、Uは「スイカでも食べてて」と言い残して部屋を出て行った。戻ってきたのは30分ほど経ってからだった。その手には半紙が握られていた。
「次の話はマジでやばいぞ」と言って、部屋の明かりを消し、半紙を机の上に置いて懐中電灯で照らした。Uはこう続けた。
「この話は、昔からこの辺りでは口に出してはいけないと言われていて、こうやって紙に書きながら話を進めるんだ。でも、面倒だから一気に書いてきた。」
全員が息を呑んだ。この話が本物だという直感が走った。しかし、紙の内容を6人で囲むと、逆さから読む者もいて読みにくい状況に。「いいから口で話してよ」と誰かが提案した。最初はUも「いや、マジやばいんだって」と抵抗していたが、最終的には怖いもの見たさに負けた私たちに押され、Uが話し始めることになった。
「責任持たないからな」と前置きした上で、Uは静かに語り始めた。
「昔、この島の北の漁港あたりに、ゆきっていう名前の娘が住んでいたそうだ。父親は漁師で、母親はゆきが幼い頃に海で溺れ死んでいた。ゆきは飴売りをしながら父親の漁の手伝いもする、働き者だった。でも、18歳のときに重い胸の病を患ってしまった。医者からは助からないと告げられ、嫁入り間近だった彼女は婚約を一方的に破棄されて、ついに発狂してしまった。」
「ちょっと待って、それ、いつの話?」と誰かが質問を挟む。Uは考えながら答えた。
「たしか明治に入ってからだったと思う。まあ続けるよ。発狂したゆきは一日中、わけのわからないことをぶつぶつ言いながら歩き回るようになった。最初は哀れに思っていた近所の人たちも、次第に気味悪がるようになり、父親に文句を言うようになった。父親とゆきの二人暮らしでは、父が漁に出ている間に彼女の面倒を見ることはできない。療養所に入れる金もなかった。父親もどうしていいかわからなくなったんだ。そんなある日の晩、ゆきは家から姿を消した。」
部屋の空気がひやりと冷たくなった。Uは少し間を置いて話を続けた。
「翌朝、漁師仲間が、前の晩にゆきが父親の船に乗って沖に出ていくのを見たと言った。『月の明るい晩だったから、横顔がはっきり見えたよ』とね。『なんで止めてくれなかったんだ』と父親が言うと、漁師仲間はこう返した。『いや、もう一人乗っとったじゃないか。あれはお前さんじゃなかったのか』」
その瞬間、部屋にいた全員が息を呑んだ。
「騒然となり、漁師たちも協力して捜索が始まった。そしてその日のうちに、沖でゆきの乗った船が見つかったという。船は曳航されて戻ってきたが、その船の上にはゆきの変わり果てた姿が転がっていた。ゆきはひとりきりだった。だけど、おそらくゆきを連れ出した何者かが犯行に及んだのだろうと言われた。心中を図って沖に出たのか、それとも争って海に落ちたのかはわからない。いずれにしても、生きているはずがないと結論付けられた。」
Uは言葉を選ぶように間を取る。私たちも息を殺して聞いていた。
「でもね、誰もが心の中では思っていた。『これは人の仕業じゃない』って。なぜなら、ゆきの首は切り取られていたんだ。」
その瞬間、部屋の中が凍り付いたように静まり返った。Uの声はひどく低く、不気味に響いた。
「それ以来、ゆきのことを話す者の元には、ゆきが訪れると言われているんだ。凪いだ海から、白い手が何本も何本も伸びてくる……とても深い海の底から……」
Uの声が次第にかすれていき、話の筋もつかめない奇妙な音だけが漏れるようになった。聞き取れる単語はほとんどなかったが、最後にはっきりこう聞こえた。
「富士の影がきれいで……」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の誰かがUの肩を激しく揺さぶった。「おい、どうした!」と叫ぶ声が響く。その声を聞いて私もUを揺さぶることに加わった。気づけば全員が半泣きだった。話の途中から、文脈がどこかおかしくなっていた。いや、そもそもUの声ですらなかったのだ。
Uは揺さぶられた拍子に目を覚まし、正気を取り戻したようだった。しかし、ただ一言「眠い」と呟くと、そのまま倒れ込むように眠り込んでしまった。私たちは互いに顔を見合わせ、何とも言えない気まずい空気の中、怪談大会をお開きにした。
気になって眠る前に、机の上に置かれていた半紙を確認してみることにした。そこには、こう書かれていた。
「それ以来、ゆきはこの話をする人間の元に、」
私はそれ以上読むことができなかった。半紙を破り捨て、部屋の隅に押し込んだ。
翌朝、Uは昨夜の出来事をすっかり覚えていない様子だった。「俺、あれ話したのか?うっそー。まあ、どうでもいいけど」と、拍子抜けするほどあっけらかんとしていた。その無邪気さに恐怖を蒸し返すこともできず、私たちはそれ以上何も話さなかった。
しかし、一つだけ気になることがあった。最後に聞こえた「富士の影」という言葉だ。帰る前、思い切ってUに尋ねてみた。
「富士の影って何か意味があるの?」
「富士山の影?別に何も。なんで?」
「いや、なんでもない。」
直接Uに聞くのが憚られた私は、お世話になったUの親にこっそり尋ねてみた。すると、あっさりとした答えが返ってきた。
「ああ、満月の夜なんかにたまに見えるよ。空気が澄んでて、海面の温度とかいろんな条件が揃ったときにね。ここからでも夜中に見えることがある。」
その説明を聞いて、妙に納得する自分がいた。しかし、それ以上は深く考えたくなかった。島を後にしてからというもの、この話は口に出すことができなくなった。
あのときのUの声が、いまだに頭から離れない。昨年、祖父が亡くなったとき、通夜の夜に祖父の声を聞いた気がした。その瞬間、何かが腑に落ちたような気がした。あの夜に聞いたUの声は、祖父の声のように、男性とも女性とも断定できない声だった。それは、生者の声ではなく、明らかに死者の声だったのだ。
(了)