今でも、あの男の目に焼き付いた《黒》を思い出すと、胃の裏がじくじくと熱を持ち始める。
これは、山奥の古い旅館に泊まったという男性から聞いた話だ。話の筋よりも、途中で何度も言葉を切り、しばらく黙り込む癖のほうが印象に残っている。思い出したくない場面を、慎重に避けているように見えた。
彼は当時、ひどく疲れていた。仕事そのものより、人間関係に消耗していたらしい。「どこでもいいから、知らない場所に行きたかった」とだけ言っていた。検索で偶然出てきたのが、その宿だった。写真は少なく、口コミもわずかで、そのほとんどが「完璧だった」と短く書かれている。それが逆に気になり、予約を入れたという。
最寄り駅からバスに揺られ、さらに一時間ほど山道を歩いた先に、旅館はあった。苔の浮いた木造二階建てで、古びているが荒れてはいない。風に擦れる杉の葉の音が、建物の輪郭をなぞっていた。不思議なことに、その時点で彼は不安を感じなかった。
女将は落ち着いた物腰の女性で、ほかのスタッフも皆、感じがよかった。館内は清潔で、畳の匂いが心を緩める。夕食は派手さこそないが、どれも丁寧な味だった。彼はその宿をすっかり気に入り、「いいところに来た」と素直に思ったという。
夜はすぐ眠りに落ちた。だが、深夜二時を少し過ぎた頃、理由もなく目が覚めた。時計の針が二を指しているのを見た瞬間、全身に鳥肌が立った。喉が乾き、布団の中にいられなくなった彼は、そっと廊下に出た。
非常灯の青白い光が、柱と床をぼんやり照らしている。音はない。だが、無音というより、何かが息を潜めているような気配があった。彼は目的もなく歩き始めた。
廊下の先、曲がり角の向こうで、わずかに影が動いた。窓の下に、スタッフの制服を着た男が立っている。男は、客室のドアに小さな南京錠を一つずつ掛けていた。急ぐ様子はなく、数を確かめるように、淡々と。
その光景を見た瞬間、彼は柱の陰に身を寄せた。次の瞬間、男の動きが止まった。こちらを見たわけではない。それでも、見つかったと直感した。
男は腕時計に目を落とし、短く息を吸った。
「……いけません。こちらへ」
気づくと、周囲に人がいた。女将を含め、何人かのスタッフが、いつの間にか廊下を塞いでいる。全員、穏やかに笑っていた。目だけが、どこも定まっていなかった。
彼は何も言えないまま、大広間へ連れて行かれた。
そこだけが異様に明るい。畳には座布団が整然と並び、料理がすでに用意されている。祝いの場のようで、そう呼ぶには何かが足りない空気だった。
席に座らされると、隣の女性が小さく言った。
「大丈夫。じっとしていれば、終わるから」
反対側に座った大柄な男は、酒を注ぎながら、声を落とした。
「始まったら、食え。飲め。見ちゃいけないものが来る。見ても、見ないふりをしろ」
会場を見渡すと、知らない顔ばかりだったが、誰もが同じ表情をしていた。怯えを隠すための、無理に作った平静。
やがて、乾杯の声が上がった。宴が始まる。笑い声もある。箸も動く。ただ、どこにも楽しさはなかった。
その時、廊下の奥から、濡れた音がした。ぴた、ぴた、と、間隔を保ったまま近づいてくる。空気が冷え、畳の表面を何かが撫でていく。
彼は視線を落とした。それでも、見えてしまった。
床を横切る、影のような《何か》。足の形をしているようで、そうとも言い切れない。関節の数が合わず、位置も定まらない。通り過ぎたあと、そこに足跡が残っていたかどうかは、思い出せない。
音が止んだ。
誰かが、息を吐いた。隣の女性が、ほんの一瞬だけうなずいた。それが合図だったのか、宴は何事もなかったように続いた。彼も箸を動かし、酒を飲んだ。味は、確かにあった。
朝、宿を出るとき、女将は彼に言った。
「また、いらしてください」
その言い方が、別れの挨拶なのか、別の意味なのかは分からなかった。
彼は二度とその宿を探さなかった。だが今でも、旅先で古い宿を見ると、無意識に時計を見る癖が残っているという。二時前後になると、理由もなく数を数え始めることもあるらしい。
最後に、彼はこう言った。
「あの宿は、客を待ってるんじゃない。……時間が、揃うのを待ってる」
それ以上は、話さなかった。
(了)