これは、ある旅館に泊まった男性から聞いた話だ。
そこは山奥にひっそりと佇む小さな宿で、訪れる人も少なく、辺りにはしんとした静寂が広がっている。宿のスタッフは親切で、館内の清掃も行き届き、庭には見事な手入れが施されていた。
そこは、彼が心から「優良な宿だ」と思える場所だった。
その夜、彼は早めに眠りに就いたが、ふと深夜2時過ぎに目が覚めた。眠りの続きも来ないまま、思い立って静まり返った廊下を歩き始めた。旅館内は真っ暗で、ただ非常灯だけが青白い光を放っている。何もかもが暗く、息が冷たくささやくような静寂に包まれていた。
彼が足音を殺しながら廊下を歩いていると、遠くで何かが動いた気がした。よく見ると、窓から射す月明かりの中に、旅館のスタッフらしい男の姿が浮かんでいた。
その男は客室のドアに小さな南京錠をひとつ、またひとつと慎重にかけている。妙な胸騒ぎを覚え、男がこちらへ向かって来るのを物陰から見守っていたが、男は彼をあっさり見つけてしまった。
驚いた様子で腕時計を確認すると、その男は「一緒に来てください!」と慌ただしく彼を連れて行こうとする。周りには他のスタッフもいつの間にか集まり、逃げられない彼を囲むようにして連行していった。連れて行かれた先は、大広間の宴会場だった。
暗闇に沈む旅館の中で、宴会場だけは明るく照らされていた。そこには地元の住人らしき人々が集まっており、テーブルには料理がずらりと並んでいる。彼を席に座らせると、近くにいた四十代くらいの女性が「運が悪かったねえ、大丈夫だから、落ち着いてね」と優しく語りかけてくれた。
やがて、強面の男が隣に座り、「宴会が始まったら、楽しそうに飲んで食えよ」と厳かに言う。「そのうち新しい客が来るが、決して気にするな。あまりにも怖ければ、その人を見ないようにするんだ」と注意を受けた。
宴会が始まり、誰もが楽しそうに振る舞っているものの、微かに見える皆の目には恐怖が宿っていた。ふと廊下の奥から、ぴた、ぴた、と濡れた足音が響き始める。冷たい風が一瞬場内に吹き抜け、やがてそれは宴会場の畳の上に上がってきた。
料理に集中するふりをして彼は視界を逸らしていたが、その一角を通り過ぎる細い「足」が目の隅に映る。重々しく、黒よりも深い「暗さ」に包まれたその足は、徐々に人々の隙間を縫うように進み、やがて彼の斜め向かいの席に腰を下ろした。
足音がやみ、部屋の中の冷たい空気が次第に消えていった。宴会場の人々がほっと息をついたのが伝わり、彼もようやく顔を上げる。隣の女性が「終わったよ」と微笑み、ほかの客たちも次第に落ち着きを取り戻していく。宴会はやがて、恐ろしい体験を共有した者たちの真の宴へと変わり、酒と料理が飛び交う不思議な一体感が生まれていた。
朝になり、彼がチェックアウトすると、宿の人々が総出で見送ってくれた。
「あんたも仲間だよ、またいつでもおいで」と懐かしげに笑って送り出してくれたが、彼には分かっていた。あの絆を感じながらも、この宿に再び足を踏み入れることは二度とないだろう、と。