今でも、あの男の目に焼き付いた“黒”を思い出すと、胃の裏がじくじくと熱を持ち始める。
これは、山奥のとある旅館に泊まった男性から聞いた話だ。あまりに具体的な描写と、話の途中で時折見せる奇妙な沈黙が、どうしても作り話には思えなかった。
彼はそのとき、仕事で疲れ切っていたらしい。人間関係のストレスが積もりに積もり、ふと「どこか遠くへ行きたい」とだけ思って検索した先に、その宿が出てきたという。
サイトには写真も少なく、レビューも数件しかなかったが、「すべてが完璧だった」という熱のこもった感想に惹かれ、予約を入れた。
電車を降り、バスに揺られ、最後は舗装の怪しい山道を一時間ほど歩いた先に、その宿は静かに建っていた。
木造の古びた二階建て。外壁には苔が這い、風にたなびく杉の葉が屋根をなぞるように音を立てていた。だが不思議と、彼はそこに一切の不安を覚えなかったという。
宿の女将は六十代くらいの品のある女性で、ほかにも二、三人のスタッフが笑顔で出迎えてくれた。館内は掃き清められ、畳の香りが心を落ち着かせた。
その夜の食事は質素ながらもどれも味が深く、彼はすっかりこの宿を気に入った。
「優良な宿だ」――そう、心の底から思った。
風呂を済ませ、布団に入るとすぐに眠りに落ちたそうだが、なぜか深夜二時過ぎに、ぱちりと目が覚めた。
時計の針が「二」の数字を指した瞬間、なぜだか全身に鳥肌が立ったという。眠気はとうに失せ、再び眠れそうもない。彼はそっと布団を抜け出し、廊下に出た。

廊下は暗く、非常灯の青白い光がぼんやりと柱を照らしていた。耳を澄ませば、誰かが深呼吸しているような静寂。
彼は足音を忍ばせながら、廊下を歩き始めた。あてもなく、ただこの静けさの中に身を置いてみたかったらしい。
途中、ふと――
廊下の先、曲がり角の向こうで、何かが動いたように見えた。
目を凝らすと、月明かりに照らされた窓の下、男がひとり立っていた。スタッフの制服を着ている。
その男は、客室のドアに小さな南京錠を、ひとつ、またひとつと、まるで儀式のようにゆっくりとかけていた。
その光景を目にした瞬間、心臓がひゅっと縮んだ。
何かおかしい――そう感じ、咄嗟に柱の陰に身を隠したものの、すぐに男はこちらに気づいた。目が合ったのではない。ただ、「居る」ことを察知された、そんな感覚。
男は腕時計をちらりと見て、小さく息を呑んだ。
「……いけません、一緒に来てください」
言葉に逆らう隙はなかった。いつの間にか、周囲には他のスタッフも集まっていた。全員、顔は笑っていたが、目だけは笑っていなかった。
彼は抵抗もできず、囲まれるようにして旅館の大広間へと連れて行かれた。
そこだけが、異様なほど明るかった。
畳に整然と並べられた座布団、煌々と照らされる照明、ずらりと並ぶ料理の数々。
まるでこれから誰かの結婚披露宴が始まるかのような、奇妙な祝祭感。
彼はひとつの席に座らされ、隣にいた四十代くらいの優しげな女性が、ふっと微笑んだ。
「……運が悪かったねえ。でも、もう大丈夫。落ち着いて」
意味がわからず、ただ黙ってうなずいた。
ほどなくして、隣に筋骨隆々の男が座った。
「……宴会が始まったら、ちゃんと食って飲めよ。楽しくな」
そう言ったあと、低く声を落として続けた。
「そのうち、“新しい客”が来る。でも、見ちゃダメだ。見ても、見ないふりをしろ。……怖すぎたら、目を閉じて、ただ過ぎるのを待つんだ」
心臓がひどく高鳴った。
冗談だろう、と思いたかった。けれど、会場を見渡すと、他の客たちも同じような恐怖を抱えているのが、肌で感じられた。
やがて、宴会が始まった。
誰もが笑い、乾杯し、料理に箸を伸ばす。ただし、誰ひとりとして、目が笑っていなかった。
そのとき――
遠くの廊下から、ぴた、ぴた、と、何かが濡れた音を立てて近づいてくるのが聞こえた。
すぐに空気が変わった。冬の山のような冷気が会場を抜け、畳を撫でるように風が走った。
彼は顔を伏せ、箸を強く握りしめた。
そのとき、目の端に“それ”が映った。
黒よりも深く、光を吸い込むような暗い「足」。
裸足だが、濡れていて、足跡を一歩ごとに残してゆく。
それは人々の間を、音もなくすり抜けていく。細く、長く、異様に関節の多いその足が、ゆっくりと彼の前を通り過ぎ、斜め向かいの席に座った。
……ぴたりと音が止んだ。
冷気がやや和らぎ、人々の肩がほっと緩んだのが見て取れた。
彼もようやく顔を上げると、隣の女性が小さく「終わったよ」と囁いた。
それからの宴は、不思議な一体感に包まれた。
何かを乗り越えた者たちの間にだけ通じる空気。誰もその存在に触れず、ただ笑い、酒を飲み、料理を食べた。
彼もその輪の中に、自然と溶け込んでいた。
朝になり、荷物をまとめて玄関へ向かうと、宿のスタッフ全員が並んで見送ってくれた。
女将が言った。
「……あんたも“仲間”だよ。いつでも、また来てね」
誰も、あの夜のことには触れなかった。
彼は笑顔で会釈し、その宿を後にした。
もう二度と、あの道を引き返すことはないと分かっていたのに、なぜか心の奥では、それが少しだけ寂しいと感じていたという。
きっと、あの宴には――人の形をした何かと“つながる”何かがある。
そして、一度それを知ってしまった者は、もう世界の色が少しだけ変わってしまうのだ。
……今、彼はその話を語るとき、必ず言うのだ。
「あの宿は、誰かが“来る”のを、ずっと待ってる」と。