私が住むマンションのお隣の家族は、最初からどこか現実の枠に収まっていなかった。
お隣には、お婆ちゃん、母親、娘の三人が暮らしていた。父親の姿は一度も見たことがない。だが、その不在を不自然だと感じたことはなかった。いないものとして、最初からそこに無いように扱われていたからだ。
お婆ちゃんは無口で、時折ベランダの窓辺で古いオルゴールを巻いていた。旋律ははっきりしない。聞き覚えがあるようで、思い出せない。音だけが、時間を間違えたように漂っていた。
母親は常に疲れた顔をしていたが、目だけは異様に澄んでいた。こちらに気づくと、必ず先に会釈をする。逃げでも媚びでもない、決まった動作のような会釈だった。
娘はほとんど学校に行っていないようだった。夕方になると、必ずベランダに立ち、空を見上げていた。雲でも鳥でもない。何を見ているのかは分からないが、視線だけが高いところで止まっていた。
何度か、エレベーターへ向かう廊下で奇妙な光景を目にした。お隣の玄関から、段ボール箱が出てくるのだ。Amazonの小型配送箱くらいの大きさ。だが、それを誰も手に持っていない。箱は空中に浮いたまま、ゆっくりと横に移動していく。揺れない。回転もしない。ただ、一定の高さを保ったまま、時間をかけて運ばれていく。
室内にはいつもお婆ちゃんと母親がいて、娘が廊下側で箱を受け取る。受け取る、と言っても手を伸ばすわけではない。箱が自然に娘の前で止まり、そこで初めて床に降ろされる。
効率が悪い。そう思ったが、彼女たちはそれ以外の運び方を知らないようにも見えた。
ある日、娘と二人きりになる瞬間があった。思い切って聞いた。「いつも空を見てるけど、何を見てるの?」
娘は一瞬だけ間を置き、「動いてるから」と答えた。それ以上は何も言わなかった。
数週間後の夕方、インターフォンが鳴った。大学生くらいの若い男性だった。お隣の家族が事故で亡くなったと言う。三人とも即死だったらしい。彼は淡々と話し、自分は息子だと名乗った。
隣の部屋の鍵を管理人から借りてきたと言い、私も一緒に立ち会ってほしいと言われた。理由は聞かなかった。
部屋に入って、言葉を失った。家具はテレビ台とテレビだけ。カーテンも生活用品もない。床は妙にきれいで、埃すら溜まっていない。人が暮らしていた痕跡が、最初から置かれていないようだった。
部屋の中央に、段ボール箱が一つだけあった。
中身は、空の封筒ばかりだった。数十枚はある。どれも未使用で、宛名も金も入っていない。ただ、封筒の内側にだけ、鉛筆で数字が書かれていた。数えてみると、封筒の数と合わない。どう数え直しても、一枚多い。
息子は首をかしげ、「こんな物、見たことない」と言った。
そのとき、背後で気配が消えた。振り返ると、息子の姿がなかった。玄関も廊下も静まり返っている。
代わりに、部屋の隅に少年がいた。体育座りで、こちらを見ている。顔は知らない。だが、なぜか声だけは聞き覚えがあった。
「帰れ」
単調に、間を置かず繰り返す。
足が動かなくなり、視界が歪んだ。次の瞬間、私は外にいた。自分の部屋にも戻れず、マンションを飛び出してファミレスに駆け込んだ。
夜、友人と一緒に戻り、管理人に事情を話した。管理人は首を振った。「息子さんなら、昼過ぎに一人で来て、もう帰ったよ。立ち会いの人はいなかったはずだ」
それ以来、隣の部屋は空室のままだ。
夜、玄関を開けるたび、聞こえるはずのないオルゴールの音が耳の奥で鳴る。ベランダに目をやると、誰もいないはずなのに、視線だけが空を向いている気がする。
あの段ボールは、今もどこかを移動している。
そう思うと、私は部屋を出られなくなる。
(了)
[出典:536:2011/12/23(金) 13:06:13.55 ID:A6pULbQ/0]