占い師で生計を立てることを決断した万年係長の小林光男は、妻の反対を押し切って会社を辞めた。
長年の夢だった一国一城の主。サラリーマン生活にも嫌気がさしていた。
趣味で続けていた占いは職場でも評判がよく、人生相談を受けることも多かった。これなら食っていける。そう思った。
現実は甘くなかった。
ショッピングモールの占いコーナーに座っても、客は来ない。
隣の占い師には列ができるのに、小林の前は空いたままだった。
当たらない。何を言っても肝心なところが外れる。
耳障りのいい言葉は、金を払う理由にならなかった。
貯金は減り、笑顔は消えた。
無理に口角を上げた不自然な微笑だけが残った。
発している気配は、どう見ても貧乏だった。
客が来ない時間、小林は周囲を観察した。
人気の占い師は皆、遠慮がなかった。
悪いことも平然と言う。
嫌われることを恐れていない。
そうだ、と小林は思った。
いいことも悪いことも、全部言おう。
死、病、別れ。
そこから小林は変わった。
一時的に客は増えた。
だが占いの腕は変わらない。
やがて列は消え、生活は破綻した。
サラ金に手を出し、六社から借りた。
妻は出ていった。
返済は利息だけを払う地獄になった。
もう終わりだ。
小林は死に方を考え始めた。
ある日、瞑想の中で答えが降りてきた。
断食。
場所は決めない。行き倒れでいい。
それを託宣だと、小林は疑わなかった。
食を断つと、不思議と心が静まった。
顔から邪気が抜け、地蔵のような穏やかさが戻った。
その日、OLが現れた。
椎名久美子と名乗る女だった。
「悪いことだけ言ってください」
不倫の相談だった。
小林は、命を削るつもりで言い切った。
彼はあなたを幸せにしない。
二人は結婚できない。
久美子は無表情で去った。
断食は続いた。
一週間後、久美子が同僚を連れて戻ってきた。
「先生のおかげで、彼と一緒になることが決まりました」
その瞬間、小林は理解した。
占いが外れたのではない。
自分が引き受けたのだと。
その夜、小林は鑑定ブースで静かに倒れた。
誰にも声をかけられず、息を引き取った。

翌日から噂が広がった。
蒼龍先生に悪い結果を言われた人ほど、現実が好転する。
結婚できないと言われた者は結ばれ、病気になると言われた者は治る。
占いブースには長蛇の列ができた。
並んでいる客の中に、昨日鑑定を受けたという女がいた。
だが彼女は言った。
「今日はまだ、何も言われていません」
誰が占っているのか、誰も見ていない。
それでも託宣だけは、確かに響いている。
悪いことが絶対に当たらない占い師。
ただし、その占いで悪いことが消えたのかどうかを、確かめた者はいなかった。
(了)
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解説
この話が不気味なのは、「占いが当たらない」ことではない。
むしろ、表面的にはとてもわかりやすい話だ。
悪いことばかり断言する占い師がいて、なぜか結果はいつも逆になる。
だから「悪いことが絶対に当たらない占い師」と呼ばれるようになった。
皮肉としても、寓話としても成立する。
だが、そこに安心してはいけない。
決定的におかしいのは、占いが反転し始めるタイミングである。
主人公の小林は、久美子を占う時点ですでに「生き延びる選択」を放棄している。
断食による死を受け入れ、恐怖も執着も手放した状態だ。
未来を良くしようとする占い師ではない。
自分の未来を差し出す側の人間になっている。
ここで、占いの性質が変質する。
彼の言葉は、未来を予測するものではなくなる。
未来を“引き受ける”言葉になる。
久美子の結婚は、本当に占いが外れた結果なのか。
それとも、小林の死に向かう選択が、誰かの不幸を代わりに吸い取っただけなのか。
物語はその答えを一切示さない。
さらに不気味なのは、小林が死んだ後だ。
占いは続く。
悪いことは当たらない。
客は幸せになる。
だが、誰が占っているのかは語られない。
生きていない占い師。
目を閉じたままの存在。
それでも託宣は響き、人々は結果だけを受け取る。
ここで読者は気づく。
この世界では、
「不幸が消えた」のではない。
不幸の行き先が見えなくなっただけなのだ。
誰かが必ず払っているはずの代償。
だがそれが誰なのか、どこへ行ったのか、確認する術がない。
だからこの話は怖い。
占いが当たらないからではない。
幸福が説明なしに成立しているからだ。
説明できない幸運ほど、信用できないものはない。
それでも人は結果に酔い、列を作る。
そしてもう一度、問いだけが残る。
――この占いで、
本当に「悪いこと」は起きていないのだろうか。