中編 凶悪殺人事件

【閲覧注意】史上最凶のシリアルキラー テッド・バンディ【最凶悪殺人事件/ゆっくり朗読】15.6k

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セオドア・ロバート・バンディ(Theodore Robert Bundy、1946年11月24日 - 1989年1月24日)はアメリカの犯罪者、元死刑囚。

バンディは、1974年から1978年にかけて、全米でおびただしい数の若い女性を殺害した。被害者の正確な総数はわかっていないが、彼は10年間にわたる否認を続けた後、30人を超える殺人を犯したと自白している。

彼は原型的なアメリカのシリアルキラーとして考察される。実際、「シリアルキラー(serial killer、serial=連続の、順列の)」という表現は彼を表すために考え出されている。

バンディの主な殺害方法は撲殺や絞殺であった。少女や若い女性を言葉巧みに誘い、無防備状態にさせてから相手を殴りつけて意識を失わせ、それから行為を行う。

元FBI捜査官ロバート・K・レスラーをして「けだもの」と言わしめた。バンディは、女性を乱暴して殺害することをなんとも思わない、残忍で加虐的な性格の持ち主であった。バンディは反社会性パーソナリティ障害であったと考えられている。

残忍な殺人犯という一般的な評価に反し、しばしば知的でハンサムで愛嬌がある青年であったとも評される。

また、日本のメディアにも題材として登場し、ハンサムで頭脳明晰なシリアルキラーとしてショッキングに扱われる。

青年期

1946年11月24日、バーモント州バーリントンに私生児として生まれる。
出生時の名前はセオドア・ロバート・カウエル(Theodore Robert Cowell)。彼の母ルイーズはデパートの店員、血縁上の父親は不明である。テッドと母親は、テッドが9歳になるまで(家族によると、気性が激しく暴力的であった)祖父と共にフィラデルフィアで暮らしている。私生児という不名誉を隠すため、テッドは祖父母の養子、つまり母親の弟として周囲に触れ込まれていたようである。彼の叔母は、テッドが幼少期の頃、彼女のベッドの横に立ち、笑みを浮かべながらナイフで彼女を威嚇したと主張している。

テッドと母親はワシントン州タコマ(彼女の叔父がこの地にある大学で音楽講師として教鞭を取っていた)に引っ越した。それからしばらく後、母親は教会の会合で出会った退役海軍軍人で病院のコックを務めるジョン・カルペパー・バンディという男性と結婚。バンディ姓となる。複数の情報によれば、幼年期青年期にわたりバンディは実の母親を姉と考えていたかも知れないとのことである。

ウィルソン高校での高校時代、テッドは華々しいとまでは云えないまでも、メソジスト教会とボーイスカウトの活動に熱心な優れた学生であった。ただ、伝記『The Only Living Witness』の著者であるスティーブン・ミショーとヒュー・エインスウォースによれば、彼には他者と迎合する生まれつきの感覚が欠如していたという。事実、テッドは著者に対し、「人が他人とコミュニケーションをとろうとすることの理由が分からなかった」という内容のことを語っている。テッドは、高校の大半と大学時代の早期を通じて、内気で内向的なままであった。

高校を卒業する前から、万引きや窃盗などの犯罪活動は始まった。また思春期の若者として覗きなどの倒錯的な性行為に耽っていたと公言している。また自分自身の一部は、幼年期より性や暴力のイメージに魅了されていたことを「実体」と表し、またそれをよく隠していた、とバンディは自身のことを語っている(しかし、この「他の自分自身」をバンディが語っている時は、自身の死刑判決を上告しようとしていた時期であったということに、留意しなければならない)。また、彼は残虐な性描写を特徴とするスナッフフィルムのファンであると語っている。

高校卒業後、ピュージェットサウンド大学へ入学したバンディは、心理学を専攻する傍ら自己変革に取り組み、「ハンサムで頭脳明晰な青年」へと周囲の評価は変わる。マナーを磨き、ファッションセンスを洗練させ、社交的に振舞うようになった。その傍ら、社会的な活動にも目を向け、手始めにワシントン州の共和党員としてワシントン州知事選の選挙活動に参加し、その目覚ましい活躍ぶりでたちまち若手党員の中から頭角を現し、「テッドなら将来、州知事や連邦上院議員にもなれるだろう」と称賛された。

共和党員としての活動だけでなく、州政府犯罪対策委員会やシアトル自殺救済電話相談室(Seattle suicide crisis center)では、専攻している心理学の知識を活かして犯罪対策に関する政策立案・法案作成の補助やカウンセリングなどのボランティア活動で業績を上げている。この時期、水難事故で溺れた子供を救助し、地元警察より表彰されている。

自殺救済電話相談室で共にボランティア活動をしていた駆け出しの犯罪記者アン・ルールは、皮肉なことに彼女の友人であるバンディの犯罪と知らずに、彼の犯した犯罪記事を書いている。数年後、彼女はバンディの伝記『テッド・バンディ―「アメリカの模範青年」の血塗られた闇(原題:The Stranger Beside Me)』を書くこととなる。

バンディは大学一年生のときにサンフランシスコの名家出身の女性と交際を始めた。彼女を追ってサンフランシスコへ移り、スタンフォード大学にも一時籍を置いたこともあった。しかし、彼女がバンディの未熟な面、覇気のなさに嫌気が差した結果、交際は破綻する。バンディが前述の自己変革に取り組んだのはこの失恋がきっかけである。

交際破綻より2年間を経て、再び彼女とバンディは交際を始め、彼らは婚約を果たす。だが婚約より2週間後、バンディは彼女からの電話に出ることがなくなり、あっさりと彼女を捨てる(なお、バンディはこの時期、違う女性とも交際中)。この交際の破綻後、バンディは3年間にわたる殺人凶行を始めた。

バンディの殺人対象者に見られる共通点、「髪を真ん中で分けた黒髪の若い白人女性」という原型はこの女性から形成されていると、ルールは考察している。

殺人

バンディ専門家の一部、ルールやキング郡の元刑事ロバート・D・ケッペルなどは、10代前半からバンディは殺人を始めていたかもしれないと考えているものの(バンディが15歳の時、タコマ在住の8歳の女の子が失踪している事に関連付けられて考えられている)、最古の立証された彼の殺人は、バンディが27歳の時である1974年に犯されている。

1974年1月4日の夜半過ぎ、ワシントン大学に通う18歳の女子生徒の地下寝室に忍び込み、眠っている彼女をバールにて殴打、ベッドの鉄棒を引っこ抜き、それを使って彼女に性的な暴行を行った。翌朝、彼女は自身の血の海の中、昏睡状態で横たわっている所を見つかる。一命は取り留めたものの、永久的な脳障害を負った。

バンディの次の犠牲者はワシントン大学4年生の女子生徒であった。彼女の地下室に忍び込んだバンディは、彼女を気絶するまで殴り、その後ジーンズとシャツを着させてシーツで包み、彼女を運び出した。一年後、彼女はシアトルの東の山中で首を斬られた姿で発見された。

1974年の1月から6月にかけて、ワシントン州の8人の女性をストーキングしては殺害している。7月には凶行も全盛を極め、サマミシュ湖州立公園にて昼間から2人の女性が拉致、殺害されている。バンディは魅力的な顔立ちをしていたが、とりわけて覚えやすい顔立ちでもないという長所を持っていた。後年、「彼はひげや髪型を変えるといった小さな変化だけで、全く姿を変えられるカメレオンのようだ」と言われている。

夏が過ぎ、秋に入った頃にはバンディの犠牲者たちの遺体がサマミッシュ湖周辺の山奥で次々と発見され始めたが、時期を同じくしてバンディはユタ州に移住していた。優秀な成績で大学を卒業した彼はワシントン州知事の推薦状を携えて、ソルトレイクシティにあるユタ大学法科大学院に進学したのである。

ここでバンディは10月から殺人を再開した。17歳の女性を暴行し、その後に絞殺している。彼女の遺体は7日後に見つかった。またその後、他の17歳の女性がハロウィンの日に失踪し、約1ヶ月後の感謝祭の日に遺体が見つかっている。

バンディが毒牙に掛ける女性の特徴は決まっており、長髪かつ髪を真ん中で分けたスタイルの良い若い女性ということでほぼ共通していた。

第1審そして逃亡

1974年11月4日、ユタ州マレーに住む18歳の女性は、バンディの手に掛かりそうになったところから逃げ出した。バンディは警察官を装い、ショッピングモールにいた彼女に、彼女の車が泥棒に押し入られた旨を伝えるという手法を取った。危惧する彼女をモールから連れ出し、車を点検させる。だが車には何も異常がない。

バンディは彼女に書類を作るので警察署まで来てくれないかと、彼女をバンディの所有するフォルクスワーゲン・タイプ1に乗せて走り始める。だが、彼女は違和感を覚えていた。その後バンディが彼女に手錠をはめようとしたところで、彼女は逃亡した。以上のあらましを彼女は地元の警察に訴えている。

1975年8月16日、バンディは彼女を誘拐したタイプ1で走行していた所を逮捕され、その車は彼女を誘拐した車と同一であると確認される。1976年3月1日1週間にわたる裁判の後、バンディは上記の少女を誘拐した罪で1年から15年にわたるユタ州立刑務所での禁錮刑を受ける。しかし、コロラド当局は連続殺人事件を追求していた。

1976年6月7日、彼の殺人事件の裁判準備中、彼はコロラド州ピトキンにある裁判所へ移送される。休廷中、裁判所内の法律図書室に入室を許可される。バンディはそこの2階の窓から飛び降り、逃亡した。しかしその際に足首を痛め、結果として逃亡を図れなかったバンディは1週間後に捕まった。バンディは刑務所に戻された。

しかし裁判の開始を待っている時期に、彼は再び逃亡する。コロラド州グレンウッドスプリングスにある刑務所に収監されていたバンディは、どういうわけか弓鋸を所持しており、それを用いて独房の天井に四角い穴を開けていた。1977年12月30日の夜、彼はその穴によじ登り、こそこそせずに正門まで歩いていき、車を盗んで逃亡した。

フロリダへ

刑務所を訪問した友人が渡した約500ドルで、バンディは片道の航空券を購入。トランス・ワールド航空のデンバー発シカゴ行に乗って逃亡。ミシガン州アナーバー行きのアムトラックの旅客列車に乗車し、その後、車を盗んでアトランタのスラム街で乗り捨てる。そこからフロリダ州タラハッシーまでバスで移動した。

タラハッシーではクリス・ヘイゲンという偽名でアパートを借り、ひとまず腰を落ち着ける。1978年1月15日深夜、カイ・オメガ女子寮にて、睡眠中の女生徒を襲い、2人を撲殺し、2人に重傷を負わせる。

1978年2月9日、レークシティーに移動。そこで12歳の少女を誘拐して性的暴行を加えながら、彼女の顔を泥につけて溺死させ、死体を小屋の下に遺棄する。彼女がバンディの最後の被害者となった。その後、1978年2月15日午前1時ペンサコーラにて、彼が乗っていたフォルクスワーゲンが盗難車のナンバーであったことから警官に拘束される。

警察での取り調べの際、自分はクリス・ヘイゲンであり不当逮捕だと強硬に主張したが、やがてバンディの身元は判明し、カイ・オメガ女子寮での殺人事件の裁判のためマイアミに移送される。

判決そして死刑執行

法廷でのバンディ。彼は弁護士を依頼せず、自ら弁論や弁護に立った。
1979年6月25日から7月31日にかけて、バンディの第2審が開かれた。5人の国選弁護人がいるにも関わらず、バンディは自分で自分の弁護を行った。また、公判中、昔仕事場で同僚だった女性と結婚している(一子をもうけた後、離婚)。また死刑執行までの間、バンディは数百に及ぶファンレターをもらっている。

判決は死刑であった。裁判官は判決の際、以下のことを言った。
(フロリダでの死刑執行は電気椅子で行われることから)貴下が電流によって死に至るまで座っているよう、貴下が死ぬまで電流が貴下の体内を通るよう、ここに命じるものである。体に気をつけなさい。(「Take care of yourself」。別れの時の慣用句で、日本語で表すなら「それではお元気で」、「お体に気を付けて」の意。「自制した人生を」とも解釈できる)。青年よ。これは真摯に言っているのだ。この法廷で私が経験したそのような人間性の浪費は、この裁判所にとって悲劇とも言える。貴下は聡明な青年だ。貴下は優秀な法律家になれたかも知れない。そして私は、法廷で貴下が活躍する姿に惚れ込んだかも知れない。私は、貴下に何ら敵意も持っていない。それは理解してほしい。しかしあなたは道を間違えた。体に気をつけなさい。

獄中でのバンディ

ロバート・K・レスラーは、フロリダの刑務所にいたバンディに会いに行き、彼と面談を行ったことがある。バンディが有罪となり、上訴請求が棄却されてから、FBIの調査プロジェクトのために、レスラーはバンディとの面談を望んでいたが、あるとき、バンディがレスラーに手紙を出し、面談が実現した。バンディが手紙を送ったのは、FBIの調査資料を入手して自分に課された死刑宣告を覆すためであった。

しかし、レスラーは資料の受け渡しを拒否し、バンディが犯した犯罪にしか興味がないと告げた。するとバンディは、「自分は上訴に勝つ。死刑にはならない」と豪語したという。レスラーの質問をのらりくらりとかわしたり、自分の犯した殺人については3人称を使って話し、「自分がそうした」と、はっきりとは認めなかった。レスラーは、バンディが真実を語ることは決してないと考えたという。

それまで冤罪、無罪を訴えて久しかったが、死刑執行の3~4日前になって、バンディは全てを話すと言い出した。全国から警察官が集まり、バンディの話を聞くことになった。バンディは初めての殺人について曖昧に話し続け、時間がかかりそうなので死刑を延期するよう請願をしてくれれば全部話せると言ったが、受け入れることはなかった。最終的には自分の罪を認め、その上で「私は暴力の中毒だった」と語り、寂寥感にあふれた顔を見せた。

1989年1月24日午前7時6分、フロリダにある電気椅子で42歳であったバンディに死刑が執行された。

2000ボルト以上の電圧を2分間にわたり加圧され、午前7時16分に死亡を確認。その翌日、バンディの死刑執行を信じない人間が多数存在していたため、新聞の一面に彼の遺体のカラー写真が大きく掲載されている。

なお、この記事のタイトルは「Killer dies with a smile on his face(殺人鬼は微笑みを浮かべ死んだ)」であった。

[出典:Wikipedia]

参考文献

映画

『テッド・バンディ』
彼が実際に起こした事件を元に製作されたスリラー映画。電気椅子によって処刑されるまでを描く。

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