わたしには、男だった頃の記憶と、女だった頃の記憶がある。
どちらが先だったのかは思い出せない。思い出そうとすると、必ずどちらかの季節が崩れる。夏のはずなのに、窓から入る風は冷たく、白いレースのカーテンが揺れる。
大学三年の夏、居酒屋を出たところまでは覚えている。汗ばんだシャツ、煙草の匂い、友人の笑い声。アスファルトが揺れた気がして、視界が縦に裂けた。
その裂け目から、別の部屋が見えた。
白い鏡台。化粧水の匂い。指先に残る水分。耳元で鳴る軽い音楽。チョコレートケーキの甘さ。ボーイッシュなワンピースの裾が、膝に触れている感触。
それらは物語ではなく、感覚だった。名前も説明もなく、ただ身体が覚えている。
目を開けると、わたしは道路に座り込んでいた。骨ばった手。汗で湿った掌。友人が肩を揺すっている。
その夜以降、記憶は二重になった。
男としてのわたしは、地図を片手に知らない道を歩く。甘いものは苦手で、ラーメンを啜ると安心する。風邪は滅多にひかない。
女としてのわたしは、スキンケアに時間をかける。方向音痴で、ナビがないと不安になる。甘いものを口にすると、少しだけ呼吸が整う。
どちらも同じ大学に通い、同じ街を歩き、同じ人間を好きになった。
男のわたしが愛した彼女と、女のわたしが親友と呼んだ彼女は、同じ顔をしている。笑うと目尻に小さな皺が寄る。その皺の角度まで、わたしは知っている。
だが、片方のルートにいるとき、もう片方の彼女には会えない。写真も、メッセージも、記録も残らない。ただ、胸の奥に感触だけがある。
ある日、わたしはクローゼットの奥から見覚えのないバッグを見つけた。黒い革で、使い込まれている。鍵はかかっていなかった。
中には、小さな銀色のロケットが入っていた。
開けると、知らない二人のプリクラが貼られている。ひとりは、彼女に似ている。もうひとりは、どこかで見たことのある顔だった。輪郭が曖昧で、はっきりしない。
裏には、短い文字があった。
「ちゃんと、覚えていてね」
それだけだった。
わたしは、いつそのロケットを失くしたのか思い出せない。そもそも、持っていた記憶もない。

その夜、洗面所の鏡を見ていると、ふと視線がずれた。鏡の中のわたしが、一瞬だけ瞬きをしなかった気がした。
指先が勝手に、甘い香りのするハンドクリームを選んでいた。わたしは普段、そういう匂いを好まない。
胸の奥で、もうひとつの鼓動がある気がする。
彼女が中にいるのか、わたしが彼女の中にいるのかはわからない。ただ、ときどき、わたしの記憶にないはずの涙の感触が、頬を伝う。
わたしは男であり、女でもある。
あるいは、どちらでもない。
鏡の向こうの誰かが、こちらを見ている限り、この身体はまだ一つには戻らない。
そして、わたしは最近、ひとつのことに気づいた。
彼女の声を思い出そうとすると、必ずわたし自身の声になる。
[出典:401 :本当にあった怖い名無し:2013/01/26(土) 07:55:06.44 ID:hSYJcT340]