一九九五年の一月、震災の一週間前だった。
日付だけは覚えている。あのあと、家の中も学校も近所も落ち着かなくなって、冬休みの最後に山へ行った話なんて、誰も聞き返さなくなったからだ。
その日、俺は友達のタケシと、タケシの姉ちゃんに連れられて、山奥の自然公園へ向かった。タケシが正月に買ってもらったカメラを試したがっていた。姉ちゃんは免許を取って半年くらいで、細い山道を曲がるたび、体ごとハンドルに寄りかかるように運転していた。
朝から霧が出ていた。道路は濡れていて、谷に沿って何度も曲がった。助手席のタケシが、窓の外を見ながら言った。
「山っていうより、底やな」
俺は後部座席で笑ったつもりだったが、声は出なかった。
自然公園に着く前、小さな滝が見えた。道路脇に車を寄せられる空き地があり、そこから斜面を下りると、崖の間を水が落ちていた。滝というより、山の傷口から水が流れているような場所だった。
姉ちゃんは車から降りなかった。
「近くで撮ったらすぐ戻り。滑るで」
俺たちはカメラを持って下りた。足元は腐った葉で柔らかく、岩には黒い苔が張りついていた。水音が近づくにつれて、耳の奥が詰まっていく感じがした。

滝壺の横に、小さな御堂があった。
最初は物置かと思った。柱は黒ずみ、屋根は半分落ち、入口にかかっていたらしい赤い布が、裂けた舌みたいに垂れていた。中は暗く、何が祀られているのか分からなかった。ただ、奥の壁に白い跡がいくつも残っていた。昔、何かが貼られていて、剥がされたあとに見えた。
「ここ、撮っとこ」
タケシがカメラを構えた。シャッターの音が水音の間に挟まった。
俺は滝の写真を撮っていた。白い水しぶきが、フィルム越しに見ると妙にきれいだった。何枚も撮った。今思えば、あの時点で戻ればよかった。
御堂の入口の脇に、柄杓が置いてあった。
竹の柄は黒く変色していて、先の椀はひび割れていた。それでも形は残っていた。水場にあるものだから、水を汲むものだと思った。
俺はそれを手に取った。
軽かった。乾いているのか濡れているのか分からない手触りだった。滝壺に近づき、柄杓で水をすくって、少しだけ口に含んだ。
冷たかった。
ただ冷たいのではなく、舌の上の熱を抜かれるような冷たさだった。すぐ吐き出した。タケシが笑った。
「何してんねん。アホやろ」
そう言いながら、俺の手から柄杓を取った。
そのとき、上から声がした。
「おーい」
俺たちは同時に顔を上げた。
車の方ではなかった。滝の上だった。霧と枝でよく見えない崖の上から、誰かが呼んだように聞こえた。
「姉ちゃん?」
タケシが言った。
返事はなかった。水音だけが続いていた。
タケシは柄杓を持ったまま、滝壺の縁にしゃがんだ。俺は御堂の方を見ていた。中には何もない。そう思った。だが、さっきより暗く見えた。水音のせいで、空気そのものがそこへ吸われているようだった。
タケシが柄杓を水に差し入れた。
その瞬間、声がした。
「ぼおおおお……」
低い音だった。女の声に似ていたが、女が出せる声とは思えなかった。滝の上から聞こえるのに、足元の水から響いているようでもあった。
「ぼおおおお……ぼおおおお……」
俺は動けなかった。
タケシも動かなかった。しゃがんだまま、柄杓を水に沈めていた。肩がこわばっている。顔は見えない。ただ、手だけが水面の近くで止まっていた。
「タケシ」
呼んだつもりだった。声は滝に潰された。
もう一度呼んだ。
タケシは返事をしなかった。
雨が降り始めた。細かい雨がすぐに本降りになり、御堂の屋根の欠けたところから水が落ちた。ぽた、ぽた、という音だけが、滝の音とは別に聞こえた。
どれくらいそうしていたか分からない。
突然、背後でクラクションが鳴った。
「パアアッ」
車の方だった。
その音で、俺はようやく息を吸った。タケシの肩を掴んで揺すった。タケシの指がゆるみ、柄杓が水に落ちた。
柄杓は浮かなかった。
水面に触れた瞬間、そのまま下へ沈んだ。木でできた古い柄杓が、石みたいに真っ直ぐ沈んだ。
タケシが立ち上がった。顔が白かった。俺たちは何も言わずに斜面を駆け上がった。姉ちゃんは窓を開けて怒鳴っていた。
「何してたんよ。呼んでも戻ってこんし」
タケシは何も言わなかった。
車に乗ってからも、ずっと黙っていた。姉ちゃんが何度か話しかけたが、返事をしたのは俺だけだった。自然公園には行かなかった。そのまま帰った。
家に着くころには雨はやんでいた。
その数日後、学校でタケシに聞いた。
「あのとき、何見てたん?」
タケシは最初、知らん、と言った。けれど放課後、誰もいなくなってから、ぽつりと話した。
柄杓を水に入れた瞬間、下から掴まれたのだという。
手ではない、とタケシは言った。水そのものが手の形を覚えていて、それで握ってきたみたいだったと。痛くはなかった。ただ、離したらいけないと思ったらしい。自分でそう思ったのか、思わされたのかは分からない。
俺の声は聞こえなかったという。
滝の声も聞こえなかったという。
代わりに、すぐ近くで誰かが「返して」と言っていたらしい。
それが何を指していたのか、タケシにも分からない。
写真は現像した。
俺の撮った滝の写真は、どれも白く煙っていた。水しぶきのせいだと思えばそう見えた。ただ、御堂を撮ったものだけはなかった。タケシは確かに何枚も撮っていたのに、そこだけ飛んでいた。
タケシのカメラは、現像に出す前に一度、店の人に呼び止められた。
フィルムがうまく巻けていないと言われたそうだ。父親がその場で確認すると、フィルム室の中に黒いものが絡んでいた。
長い髪だった。
濡れていた。
数本ではなかった。細い束になって、フィルムに巻きついていたという。誰の髪かは分からなかった。タケシの家に、あんなに長い髪の人はいなかった。
その一週間後に震災が起きて、俺たちはその話をしなくなった。家も学校も、もっと大きな出来事の話でいっぱいになった。山の滝や、古い御堂や、カメラの中の髪なんて、誰かに話してもすぐ消えてしまう話だった。
ただ、タケシだけは変わった。
中学に上がってからも、高校に入ってからも、水辺で誰かに呼ばれるのをひどく嫌がった。川遊びに誘うと断った。海でも遠くに行かなかった。プールでさえ、後ろから名前を呼ばれると怒った。
一度だけ、俺はふざけて言ったことがある。
「おーい、タケシ」
場所は学校の手洗い場だった。蛇口から水が出ていた。
タケシは振り向かなかった。
蛇口をじっと見たまま、低い声で言った。
「それ、俺に言うな」
それから俺も、水のそばでは人を呼ばなくなった。
今でも、雨の日に排水溝の奥から水の音が続いていると、あの滝を思い出す。あの御堂の入口に、もう柄杓はないはずだ。沈んだのだから。
けれど、たまに思う。
あの日、あの声に最初に返事をしたのは、俺たちのどちらだったのか。
「おーい」と聞こえたとき、俺はたしかに顔を上げた。
タケシも、顔を上げた。
返事をした覚えはない。
でも、水のそばでは、声に出さなくても返事になることがあるのかもしれない。
[出典:132 :本当にあった怖い名無し:2012/11/27(火) 17:17:03.43 ID:RAUx7cQr0]