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ひとつだけ空いていた席 r+3,479

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今でもあの出来事を思い出すと、背中がじっとりと湿ってくる。

もう何年も前の話だ。三十代に入ったばかりの頃、真夏の昼下がりだった。
その日も私は、青梅線に乗って都内の実家に向かう途中だった。あの路線は、都心から少し離れれば一気に人の気配がまばらになり、東京とは思えないほど静かになる。

いつものように最寄り駅から電車に乗った。小さな無人駅。スイカも通じない古びた改札を抜け、ぽつんとホームに立っていると、遠くから銀色の車両がきしむような音を立ててやってきた。

ドアが開く。暑さでぼんやりしていた頭が、そのとき少し冴えたのを覚えている。
――やけに混んでいるな、と。

普段ならガラガラのはずの車両の中、ほとんどの座席に人が座っていた。制服を着た学生、作業服の男性、主婦風の中年女性……記憶はぼんやりしていて、顔までは思い出せない。ただ確かに、空いていたのは端から二番目の席、それひとつだけだった。

ラッキー、と思った。偶然ぽつりと空いていたその席に、私は当然のように腰を下ろした。

その瞬間。

となりの席の老人が、ぐるりとこちらに顔を向けた。
六十代後半か七十近いような、ひょろりと痩せた男。黄ばんだ白シャツに薄汚れたスラックス。吊り上がった目が細く、唇の端が不自然に歪んでいる。

まるでゴミでも見るような目つきだった。

その視線が妙に刺さって、私は思わず下を向いた。
……あれ、なにか変な匂いでもする?
汗臭い?服が汚れてた?それとも、太った中年女が密着するように座ったから気持ち悪がられたのか?

一瞬の間に、いくつも思考がよぎった。でも、どれもピンとこない。
いつも通りにシャワーを浴びて、服も洗濯したてだった。見た目にしても、こんな田舎のローカル線で座る席くらい、いちいち気にするようなもんじゃない。

ふと顔を上げて、周囲を見渡した。
……その瞬間、喉の奥から、ぬるりとした嫌なものがこみあげてきた。

誰もいなかった。

車両の中に、人がいなかった。

私と、となりの老人。
たった二人。

――そんなはずはない。私はさっき確かに見た。他の席にびっしりと人が座っていた。
満席に近かったからこそ、ぽつんと空いていたこの席に目がいったはずなのだ。

なのに今は、がらんどう。

ざらりと音がした気がした。誰かが息を吸ったような。
いや、違う。誰もいない。静まりかえっている。風も止んだ。

いったい、いつの間に全員が降りた?
駅に停まった記憶もなければ、足音ひとつ聞こえなかった。だいたい、一斉に全員が降りたなら、何かしら気づくはずだ。足音、ドアの音、ざわめき……なにかしら。

私は、車内のど真ん中に、唐突に置かれた異物になった気がした。
自分だけが現実から外れてしまったような、不気味な浮遊感。

……気づいた。となりの老人の視線は、ずっと外さずにいた。
その目は、やはり明らかに「おかしいもの」を見ている目だった。
私を、ではなく――

私の「存在」に驚いているようだった。

全身に冷たい汗がじわりと浮いた。
この人は、最初からこの車両に一人でいたんじゃないか?
誰もいなかった車両に、ある瞬間、私だけが――「割り込んで」きたんじゃないのか?

そう考えた瞬間、思わず席を立った。いてもたってもいられず、ふらつく足で連結部へと走った。ドアを開ける音すらひどく大きく響いた気がする。

隣の車両には、人がいた。普通にいた。高校生、会社員、老夫婦。
汗を拭きながらスマホを見ている人。吊り革につかまって目を閉じている人。
何もおかしくない、何も変わらない、当たり前の世界。

足が震えて、しばらくドア近くに立っていた。
さっきの車両にはもう戻れなかった。あの老人と、ふたりきりの車両に。

――でも、いまでも思う。
あの人は、私を「見ていた」。
不審者を警戒する目ではなかった。
明らかに、あり得ない何かを見てしまった人の、あの目。

私のほうが、本当は「いないもの」だったのか?
それとも、あの車両のすべてが、最初から存在しなかったのか?

誰かが言っていた。
「見てはいけないものを見たとき、人は必ず“自分のせい”にする」と。
羞恥や戸惑いで、自分の行動のほうが間違っていたと思い込もうとするのだ、と。

……今はもう、確かめようもない。
ただ、あの無人駅に、もう一度行こうとは思わない。
あれ以来、一度も。

[出典:85 :電車での不思議体験 1:2020/02/26(水) 01:57:00.43 ID:hHNPiNRf0.net]

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