真夏の昼下がりだった。
青梅線の無人駅で、私はひとりホームに立っていた。都心から少し外れただけで、東京はこんなにも音を失う。蝉の声だけが、コンクリートの縁に反響していた。
銀色の車両が、きしむような音を立てて滑り込んできた。
ドアが開いた瞬間、違和感があった。
混んでいる。
この時間帯のこの区間で、座席が埋まることはまずない。だがその日は、制服の学生、作業服の男、買い物袋を抱えた女……ほとんどの席に人がいた。顔は覚えていない。ただ、人の輪郭だけがあった。
空いていたのは、端から二番目の席、ひとつだけ。
当然のようにそこへ腰を下ろした。
隣に、老人がいた。
六十代か七十近い痩せた男。黄ばんだ白シャツ。皺の深い頬。吊り上がった目が、ゆっくりこちらを向いた。
その目が、私を通り越していた。
何かを見ている。
私ではない、私の“形”を。
言葉はない。ただ、眉がわずかに動いた。確認するように。
あり得ないものが、そこに座った、とでも言うように。
その視線に押されて、私は車内を見渡した。
誰もいなかった。
制服も、作業服も、買い物袋も。
座席はすべて空いていた。ついさっきまで埋まっていたはずの場所が、剥ぎ取られたようにがらんとしている。
停車した覚えはない。
ドアの開閉音も、足音も、ざわめきも、何も聞いていない。
ただ、消えていた。
車輪の振動だけが、一定のリズムで床を震わせる。窓の外の景色は流れている。
現実は続いているのに、人数だけが合わない。
老人は、まだこちらを見ている。
その目に浮かんでいたのは、警戒ではなかった。
恐怖でもない。
「確認」だった。
彼は一度、私の足元を見た。
それから、空席の列へと視線を滑らせ、再び私に戻した。
まるで、いないはずの場所に、座標がひとつ増えているのを数え直すように。
息が浅くなった。
自分の膝に触れてみる。布の感触がある。体温がある。
だが、確かめるほど、手応えが薄くなる気がした。
もしかすると――
この車両には、最初から老人しかいなかったのではないか。
私は、途中で“入り込んだ”のではないか。
満席だった光景は、私が見るための配置だったのかもしれない。
空席に座らせるための。
老人の唇が、わずかに動いた。
声は聞こえない。
だが口の形は読めた。
「やっぱり」
何に対する「やっぱり」なのか。
次の瞬間、彼は首を傾けた。
私ではなく、私の後ろの空間へ。
反射的に振り向く。
誰もいない。
連結部のドアが揺れているだけだ。
だが、揺れは内側から押されたように見えた。
立ち上がった。
逃げるというより、位置をずらしたかった。自分の座標を。
連結部へ向かう途中、ふと窓ガラスに映る車内を見た。
老人が、こちらを見ている。
その隣に――
私が、座っていなかった。
空席だった。
窓に映る座席は、老人の隣だけが、ぽっかりと空いている。
足が止まる。
視線を直接戻す。
そこには確かに、私は立っている。
だが窓には、いない。
老人が、ゆっくり頷いた。
理解した、とでもいうように。
次の駅に停まった。
ドアが開き、初めて他の乗客が流れ込んできた。高校生、会社員、買い物帰りの女。
何事もなかったように席が埋まる。
老人の隣にも、若い男が座った。
私は連結部に立ったまま、老人の横顔を見ていた。
彼はもう、私を見ない。
まるで、最初から数に入っていなかったものを見る必要がないように。
あの日以降、青梅線には乗っていない。
だが時折、都心のホームで電車を待っていると、妙な感覚に襲われる。
人が多すぎる、と。
視界に入る人数が、どこかひとつ、余っている気がする。
満員電車の中で、誰かが空席に気づくように、
誰かが、私の分の座標を数え直している気がする。
もし次に、あなたがローカル線に乗って、
ひとつだけ空いた席を見つけたなら。
座る前に、一度だけ周囲を見渡してほしい。
その席は、本当に“空いている”のか。
それとも、そこにいるはずの何かが、あなたに譲っただけなのか。
そして、もし隣の誰かが、
あなたではなく、あなたの“存在”を確認するような目で見ていたなら。
そのときは、窓を見てほしい。
そこに、あなたは映っているだろうか。
[出典:85 :電車での不思議体験 1:2020/02/26(水) 01:57:00.43 ID:hHNPiNRf0.net]