これは、中国地方を旅した友人から聞いた話だ。
八年前の夏、三人の男たちは、海沿いの小さな民宿に一泊する羽目になった。海水浴に興じていた午後、突然の豪雨に見舞われ、原付で帰るのは危険だと判断したのだ。二階建ての木造建築で、外観はどこにでもある古びた宿。その玄関を叩くと、かなりの高齢と思われる小柄な婆さんと、無愛想な中年の男が出迎えた。宿泊を申し出ると、快く部屋を用意してくれたが、その時の微妙な間と視線が、どこか妙だったという。
夕飯を終え、疲れ切って布団に倒れ込む。寝つきは良かったが、深夜二時頃、ふと目が覚めた。気だるい体を横目に起き上がると、隣に寝ていた泉の姿がない。初めはトイレだろうと気にしなかったが、しばらくしても戻らない。嫌な予感がして松宮を起こし、二人で泉を探すことにした。
廊下を進むと、薄暗い二階からぼんやりとした光が漏れていた。階段を登るにつれ、かすかな声が耳に届く。婆さんと中年男、そして震える泉の声。障子越しに聞こえた言葉は、冷たい雨が心に滴るようだった。
「わかりません」
「助けてください」
障子を開け放つと、そこには座敷の中央で怯える泉と、無表情な婆さんと中年男。婆さんは手に包丁を握り、中年男はどこか焦点の合わない目でじっとこちらを見ていた。だが、目線は正確には「こちら」ではなく、「こちらの向こう」を見ているように思えた。
婆さんが何かを呟いた瞬間、背後から強烈な力で引っ張られる感覚が襲った。体が浮き、気づけば松宮と一緒に階段を転げ落ちていた。泉も巻き込まれていたらしく、三人で床に倒れこんだ。顔を上げると、階段の上には婆さん、中年男、そしてもう一つ――闇を凝縮したような黒い何かが蠢いていた。
それは、細長くぐにゃりと歪む影。動物とも人間ともつかない輪郭。ナメクジを漆黒に染めたような、それでいてどこか人間臭い奇怪な何かだった。
全員、咄嗟に逃げ出した。雨はいつの間にか止んでいて、民宿に荷物を置き去りにしたまま原付に飛び乗った。泉の震える足が原付のペダルにまともに力を込められず、何度も転びそうになりながらも、必死に逃げた。どれだけ走っただろう。道沿いにポプラの看板が見えた時、ようやく三人は駆け込むようにして身を隠した。
翌朝、ばあちゃんの家に戻ると、泉は絞り出すように言った。
「あの二人、ずっと『うなずくな』って言ってたんだ。俺が何を聞かれても、絶対にうなずくなって。でも、臭かった……口の中も、押入れの中も。血と肉の腐った匂いがした」
あの民宿は今もどこかにあるのだろうか。
婆さんと中年男は――あの黒い影は、何だったのか。
[出典:581 :本当にあった怖い名無し:2016/10/14(金) 20:52:48.40 ID:YJypNS3M0.net]