今でも、あの壷の重さを思い出すと、腕の奥にひやりとした感触がよみがえる。
ずっと昔、私が中学生だった頃、夏の終わりに起きた出来事だ。
私の実家は郊外の古い一軒家で、建て増しと補修を繰り返してきたせいで、部屋の位置も襖の高さもどこかちぐはぐだった。敷地の裏手には苔むした庭があり、その奥に小さな池があった。
雨が続くと水位が上がり、底の石が見えなくなるような、深さのない池だった。そこに一匹だけ金魚を飼っていた。
背中に「イ」と「ヨ」の字に見える黒い模様がある赤い金魚で、家族で「イヨ」と名づけた。名前の由来に深い意味はない。ただ祖母が「イとヨに見える」と言ったのが始まりだった。
餌をやるときにはすぐ水面までやってきて、指をつついた。目の前で手を振ると、それを目で追ってついてくる。金魚の知能など高が知れているはずなのに、あの頃のイヨには妙な「通じ合い」のようなものを感じていた。
壊れかけの縁側に腰かけて、ぼんやりと池を眺めていると、イヨは決まって水中からこちらを見上げていた。まるで会話を求めるかのように、ひらひらと尾びれを揺らして。
***
あれは、蒸し暑い日の午後だった。
庭の奥から、祖母の叫び声が聞こえた。
悲鳴というには擦れた声で、けれどたしかにただならぬ調子だった。私はすぐに立ち上がり、祖父も杖を突きながら後を追った。
池の前には、ずぶぬれになった妹がいた。まだ五歳だったはずだ。
祖母はしゃがみ込んで妹を抱きしめていたが、よく見ると妹の手元には大きな壷があった。藍色の絵付けがされた、口が広くて底の深い陶器の壷だった。
それは、見覚えのある壷だった。数年前に祖父がどこからかもらってきたもので、元々は家の裏の物置に転がっていたはずだ。表面には泳ぐ鯉が描かれていて、祖父いわく「有田焼かも知れん」とのことだった。
けれど、妹が抱えていたその壷の表面には、鯉だけでなく赤い金魚も描かれていた。しかも、金魚の背中には、イヨと同じような黒い模様が、はっきりと描かれていた。
「これ……」と私は思わず声を漏らした。
「この壷、前は鯉だけじゃなかった?」
「イヨが、入っちゃったんだよ」
妹は濡れた髪を顔に張り付けたまま、ぽつりとそう言った。
「壷の鯉さんが寂しいって言ってたから、おともだち連れてってあげたの」
何を言っているのか分からなかった。
けれど、池をのぞき込んでも、どこにもイヨの姿は見えなかった。
その時の私は、単純に「壷がもうひとつあったのだろう」と思った。だが我が家にはそんな立派な壷は一つしかないし、近所には瀬戸物屋などない。妹が勝手に用意できる代物ではなかった。
壷を手に取ると、内側がしっとりと濡れていた。水は入っていない。重さも普通だ。ただ、なぜかひどく冷たかった。
祖父は黙って妹から壷を受け取り、池の中に沈めた。
そのまま、何も言わずに立ち尽くしていた。
私は祖父に言った。
「おじいちゃん、妹の夢を壊さないために、あとでこっそり壷を取り替えるんでしょ?」
祖父は、しばらく黙ってから、にやりと笑って、
「いや、そういうことじゃない」とだけ言った。
その言葉の意味は分からなかったし、今もはっきりとは分からない。
***
その夜、眠れなくなって庭に出た。
庭は月明かりだけが頼りだったが、目が慣れると池の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。
水面をのぞくと、壷がそのまま池の底に沈んでいた。
藍色の絵柄がゆらめいて、月光に照らされてかすかに光っているようにも見えた。
そしてその隣に、イヨがいた。
水底にぴたりと身を寄せて、まるで壷に寄り添って眠っているかのようだった。
何も言わずにその場を離れた。
翌朝も、イヨは池にいた。壷のそばを離れず、まるで番をするかのように。
あの事件以降、壷はずっと池に沈めたままだった。誰も取り出そうとはしなかった。妹も何も言わなかった。
***
月日は流れ、祖父は数年前に亡くなった。
イヨも数日後に池の中で死んだ。
祖父の遺言だった。
「イヨの壷を掘り出して、墓に一緒に埋めてくれ」
掘り返した壷の表面には、やはり金魚の絵が描かれていた。背中の模様もそのまま。
けれど、金魚の目の中には細い線が増えていた。
まるで涙のような、ひび割れのような、微細な絵付けだった。
そのとき祖母はまだ健在だったが、口を開くことはなかった。
***
先日、久しぶりに祖母のいる介護施設を訪ねた。
祖母はもう私の顔もよく分かっていないようだったが、急に目を見開いて、ぽつりと言った。
「壷の中、見てはいけないよ……」
「なあに?」と訊き返すと、祖母はふふふと笑った。
「あの子、まだ壷の底にいるよ」
ぞっとして身体が強張った。
イヨのことを話していないのに、まるで誰かが背中から耳元に口を寄せたような、そんな声だった。
妹の顔がふと脳裏をよぎった。
あの後、妹は壷のことを一切口にしなくなった。
進学し、就職し、結婚し、遠方へ引っ越した。
だが、今でも夢を見ることがある。
池の底に沈んだ壷の蓋が、わずかに開いて、赤い何かが浮かび上がってくる夢だ。
目が覚めると、部屋の隅がしっとり濡れている気がする。
カーテンが揺れていないのに、どこからか水音が聞こえる。
私はそのたびに、あの壷の重みを思い出す。
あの底にいたのは、本当に金魚だけだったのだろうか。
いや、そもそも、イヨはあの壷から出てきたのか。
あの夜、水底で眠っていたそれは……本当にイヨだったのだろうか。
それを確かめようとする気にはなれない。
だって、もしも、壷の中に今も“もう一匹”いたとしたら――
そいつが、ずっと、待っているとしたら。
私は、絶対に、壷の蓋を開けたりはしない。
誰が何と言おうと。
……たとえ、それが、自分の中にずっといるような気がしても。
[出典:941 :本当にあった怖い名無し:2010/04/19(月) 10:34:04 ID:IPIBPEy60]