朝の五百円が、あれの始まりだったのかもしれない。
俺は毎朝、同じ時間に家を出る。少し早めに着いて、バスターミナルの待合室で缶コーヒーを飲む。それが一日の区切りになっている。ベンチはいつも決まった端の席だ。背後が壁で、正面が発車案内板。落ち着く。
その日も、何も変わらなかったはずだった。
隣に座ってきた男は、五十代か六十代か判然としない顔をしていた。視線が合う。目がやけに澄んでいた。口の中で何か言っている。最初は無視したが、ずっと見ている。
「何すか」
そう言うと、男は顔を寄せてきた。
「……にぃちゃん、お金貸してくれやぁ。五百えん」
手が出ている。掌は妙に乾いていた。
断れば済む話だと思った。だが男は同じ言葉を繰り返す。
「五百円。明日には返すからぁ。五百ええん」
声の抑揚が不自然だった。言葉が感情を通らず、そのまま再生されているようだった。
渡せば終わるのか。だが、もし終わらなかったら。もしそれが、明日も、その次も続くなら。
俺は冗談めかして言った。
「いや、俺の財布ね、金が入らない性分でして。開けたら木枯らしが吹くんですわ」
男は一瞬だけ黙った。目だけが動かなかった。
その隙に立ち上がった。待合室を出る。バスまで十五分ある。時間を潰せばいい。
背後から声が飛ぶ。
「にいいいちゅあああん! 五百ええええん!」

振り返らなかった。地下街へ降りる階段を駆け下りる。上を見上げると、男が階段の上に立っている。こちらを見ている。声は出していないのに、耳元で同じ言葉が続いている。
地下街は静まり返っていた。平日の朝なのに、人がいない。シャッターの降りた店が並んでいる。時計を見る。八時二分。さっき見たときは七時五十七分だった。
五分しか経っていない。
角を曲がる。足音がついてくる。姿は見えない。声だけが一定の距離を保っている。
「五百円」
振り返る。誰もいない。
また歩く。声が近づく。
「五百円」
距離が変わらない。一定の位置から聞こえる。
階段を見つけて上がる。喧騒が戻る。人がいる。列がある。時計を見る。八時二分のままだった。
列に紛れ込む。安心しかけた瞬間、真後ろから息がかかる。
「にぃちゃぁん。おったぁ」
男が立っている。息は荒くない。追ってきた様子もない。
バスの扉が開く。押し込まれるように中へ入る。男は乗らない。ドアが閉まる。窓越しに見ると、男はベンチに座っている。最初にいた場所だ。
翌日、俺は同じ時間に来た。あの席に、男が座っていた。
目が合う。手が出る。
「五百円」
声は静かだった。
渡せば終わるかもしれない。渡さなければ、続くかもしれない。
その日、俺はポケットの小銭を握った。五百円玉の感触があった。確か昨日は使っていたはずだ。
いつの間にか、掌にもう一枚あった。
二枚。冷たい。
俺は何も言わず、席を立った。
帰りのターミナルで、人混みの向こうから傘が突き出された。石突が目の高さを狙っている。反射的に避ける。数センチの差で通り過ぎる。
すれ違いざま、傘の持ち手が視界に入った。乾いた掌だった。
振り返る。人混みの中、あの男が立っている。傘は持っていない。両手は空だ。
目が合う。
男は口を動かしていない。
それでも、はっきり聞こえた。
「五百円」
周囲のざわめきが、一瞬だけ同じ音に揃った気がした。
翌朝も、俺は同じ時間に家を出た。
ベンチは空いていた。
だが、俺の隣の席に、五百円玉が一枚、置いてあった。
触れていないのに、掌が冷たい。
後ろから声がする。
「明日には返すからぁ」
振り向いていない。
――今も、まだ返していない。
[出典:47 本当にあった怖い名無し New! 2012/08/21(火) 23:21:01.70 ID:a7SVX21v0]