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最後の客 rw+5,631-0406

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あの店には、週に一度くらいの頻度で行っていた。

駅から少し離れた、古い中華料理屋だった。うまい店というより、行く理由が説明しづらい店だった。味は嫌いじゃない。値段も安い。店主は無口で、常連にも愛想を振りまくことはない。それでも、気がつくと暖簾をくぐっていた。

その日も、夜にラーメンを食べに行った。

客は自分ひとりだった。珍しいことではない。ラーメンを食べ終えて勘定を頼むと、店主は首を振った。

「いらない」

聞き返すと、店主は鍋の火を落としながら言った。

「今日で終わりなんだよ」
「終わりって」
「店じまい。もう明日から開けない」

そう言って、カウンターの下から白い折詰めを二つ出した。

「最後だから持ってけ。あんた、よく来てたろ」

受け取ると、思ったより重かった。まだ温かい。

「ありがとうございます。お疲れさまでした」

それしか言えなかった。店主はもうこちらを見ていなかった。暖簾を外し、入口の札を裏返していた。

店を出てから、何となく友人に電話した。あいつもあの店を知っていたから、閉店を惜しむくらいの気持ちだった。

「珍萬軒、今日で閉まるんだってさ。俺が最後の客だった」

友人は少し黙ってから、低い声で言った。

「店の名前、今なんて言った」
「珍萬軒だけど」
「本当にそう言ったか」
「は?」

声の調子が変だった。

「店主は何て言った」
「今日で終わりだって。あと、最後だからって折詰めを二つ」
「開けたか」
「まだ」
「絶対に開けるな。食うな。今どこだ」
「帰り道だけど」
「アパートに戻るな。駅前のコンビニに行け。明るいところから動くな。人のいる場所にいろ」

意味が分からず笑うと、友人は怒鳴るように言った。

「いいから行け。着いたらすぐ連絡しろ」

そこで切れた。

駅前のコンビニに入り、言われた通り電話をかけた。

「着いた」
「誰かついてきてないな」
「誰もいないよ。お前どうしたんだよ」
「待ってろ。すぐ行く」

それが最後だった。

一時間待っても来ない。電話は繋がらない。メッセージも既読にならない。気味が悪くなって、そのまま近くのネットカフェに泊まった。

翌日も連絡は取れなかった。

大学にも来ていないと言われた。家にもいないらしかった。何日か待ってみたが、結局そのまま消えた。

気になって珍萬軒の前を通った。

看板は外されていた。シャッターには「閉店しました」と紙が貼ってあった。だが、その紙は古びて茶色くなっていて、角がめくれていた。昨日貼ったものには見えなかった。

隣のクリーニング屋の婆さんに、あの中華屋のことを何気なく訊いた。

「あそこ、いつ閉めたんですか」

婆さんは首をかしげた。

「ずいぶん前だよ。夏の前にはもう閉まってたはずだけど」

冗談だと思った。自分は昨夜そこでラーメンを食べたのだ。折詰めも二つもらった。袋ごとネットカフェに置いてきたから、あとで見せれば済む話だと思った。

だが、部屋に戻って確認すると、折詰めはなかった。

レジ袋だけが残っていて、中は空だった。油の染みも、湯気のこもった匂いもなかった。最初から何も入っていなかったみたいに、軽かった。

それから数日して、隣の部屋の男に声をかけられた。

「おたく、借金でもあるの」
「いや、別に」
「じゃあ変なのに恨まれてんのか」

話を聞くと、夜中に何度か誰かが来ていたらしい。自分の部屋の前に立って、長いこと戸を叩いていたという。

「最初は一人かと思ったけど、毎回声が違うんだよな」
「声?」
「おたくの名前呼んでたよ。開けろって。でも、誰も名乗らない」

いつ頃かと聞くと、最初に来たのは、あの夜だった。

それから自分は部屋に戻らなくなった。ホテルや漫画喫茶を転々とした。実家に帰ることも考えたが、帰る先を知られる気がしてやめた。知られる理屈はないのに、そう思った。

九月の終わりになって、別の友人から電話があった。

失踪したあいつが死んでいたという。

車庫で首を吊っていたらしい。もうだいぶ前に見つかっていたが、家族が混乱していて、周囲にはすぐ伝わらなかったらしい。

「実は、お前に言わなきゃいけないことがある」

その友人は、通夜の夜、遺族に呼ばれて別室に入ったのだと言った。

亡くなったあいつの携帯が机の上に置かれていた。遺書はなかった。ただ、履歴だけが妙だったらしい。

「お前から電話があったあと、あいつ、同じ番号に何回もかけてた」
「どこに」
「珍萬軒」

息が止まりそうになった。

「繋がらなかったみたいだ。でも、何度も何度もかけてる。その前に、お前との通話がある」
「何で」
「分からない。ただ、親御さんが言ってた。あいつ、携帯を握ったまま死んでたって」

それから少し黙って、友人は続けた。

「お前、その店で何か言われなかったか」
「最後の客だって」
「やっぱりか」

その言い方がひっかかった。

「お前、何か知ってるのか」
「昔、似た話を聞いたことがある。閉める店で、最後の客に持たせるんだと」
「何を」
「残り物じゃない。次を呼ぶためのものを」

電話の向こうで、何か紙をめくる音がした。

「俺、親御さんから見せられた履歴、メモしてたんだ。珍萬軒の番号」
「それがどうした」
「今も繋がる」

全身の汗が冷えた。

「かけたのか」
「さっきな。ずっと使われてない番号のはずなのに、呼び出し音が鳴った」
「誰が出た」
「誰も出ない。でも、五回目で留守電に切り替わった」

友人はそこで止まった。

「何て入ってた」

少し間が空いてから、聞きたくなかった返事が来た。

「本日は閉店しました。またのご来店をお待ちしております、って」

自分はその夜のうちに街を出た。

アパートは引き払った。大学も辞めた。携帯も捨てた。名前を変えることまで考えたが、意味があるのか分からない。

いまも、ときどき知らない番号から着信がある。

出ない。

けれど留守番電話だけは残る。

雑音のあと、皿の触れ合う音がして、油のはぜる音がして、最後に男の声が入る。

「お持ち帰り、まだ二つあるよ」

(了)

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