近所の中華料理店でラーメンを食べていた際、支払いをしようとしたところ、店主が「いらない」と言った。店主によると、この店は今日で閉店するという。経営が厳しくなったことや高齢による体力の限界などが理由で、惜しまれつつも店を畳むことに決めたそうだ。
「今日で店を閉めるんだ。あなたが最後のお客さんだよ。いつも来てくれてありがとう。これ、お土産」と言いながら折詰めを二つ手渡された。店主の言葉を聞いて、胸が締めつけられるような寂しさを感じた。驚きと同時に、これが本当に最後なんだという実感が湧き、言葉に詰まってしまったが、なんとか笑顔を作って受け取った。
どう反応すべきか分からなかったが、「非常に残念です。お土産、ありがたく頂戴いたします。お疲れ様でした」と挨拶し、店を後にした。
折詰めの中には、餃子、春巻、唐揚げがぎっしりと詰まっていた。一人で食べきれない量で、思いがけない体験に得をしたような気分になり、少し楽しくなった。
帰り道、友人に電話をかけて事情を説明し、「今、俺の家に来れば中華オードブルがたらふく食べられるぞ」と誘った。
しかし、友人の返答は意外なものだった。「その折詰め、中身を食べたか?」
「いや、まだ食べてないけど」
「いいか、絶対に食べるな。それから、アパートにも戻るな。駅前のコンビニに行け。車で迎えに行くから」
「どういうことだ?全然分からないけど」
「説明は後だ。とにかく、人がいる場所が安全だ。コンビニに着いたら連絡をくれ」
状況が飲み込めないまま、俺はコンビニに向かい、友人に電話をかけた。
「着いたよ」
「こっちもすぐ着く。誰かにつけられたりしてないか?」
「いや、特にそんなことはないけど……お前、大丈夫なのか?」
「それはこっちのセリフだよ」
そう言った直後から、友人と連絡が取れなくなった。携帯は繋がらず、コンビニで一時間近く待ったが友人は現れなかった。
友人が言っていた「絶対にアパートに戻るな」という言葉が頭に強く残り、不安がどんどん膨らんでいった。友人の声の調子や緊急性から、何かただならぬ事態が起こっていると直感し、下手に行動を変えることで危険にさらされる可能性を考えると怖くなった。そのため、友人の言葉に従い、ネットカフェで朝まで過ごし、その後始発で実家に戻ることにした。
それからしばらく実家で過ごしていたが、他の友人に尋ねても、その友人とは依然として連絡が取れないままだった。どこかで事故に巻き込まれたのではないか、あるいは自分と関わることで危険な目に遭ったのではないかと不安になり、心は落ち着かなかった。どうにも不安が拭えない日々が続いた。
九月も下旬になり、実家に居づらくなったためアパートに戻った。正直、戻ることに対して怖さはあったが、ずっと実家にいることも精神的に負担となっていた。
晩飯にコンビニ弁当を食べていると、お隣さんが訪ねてきた。「もう大丈夫なのか」と尋ねられて驚いた。
「え? どうして知っているんですか?」
するとお隣さんは続けて言った。「夜中にガラの悪い男が、あんたの部屋のドアや壁をガンガン蹴ってたんだよ。借金でもしてヤクザと揉めたのかと思ったさ。しばらくあんたの姿も見なかったから心配してた。でも、あんたが戻ってきたし、深くは詮索しないけどね」
その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。何が起こっていたのか、そして自分が何に巻き込まれているのか、全く分からない恐怖が押し寄せた。
帰ろうとするお隣さんを引き止め、「それはいつ頃のことですか?」と聞いた。
「八月の終わりと先週くらいかな。先週は特にしつこかったから、『警察呼ぶぞ』って言ったらすぐに引き上げたよ……もしかして知らなかった?」
俺が半笑いで頷くと、お隣さんは無言で立ち去った。俺もすぐに部屋を出た。何かが自分に迫っているという不安が拭えなかった。
それ以来、カプセルホテルなどを転々としている。実家に戻るのも悪くはないが、何か良くないことが起こるような気がして正直怖かった。特に、家族にまでその危険が及ぶことを考えると、実家に戻る選択肢はますます考えられなかった。
消息不明の友人から話を聞くことがこの状況を解決する鍵だと信じ、学校の知人を通じて連絡を試みたが、依然として音信不通のままだった。友人に何かあったのかもしれないという恐怖が、日に日に大きくなっていった。いつも一緒にいたあの友人が、まるで何かに引き裂かれるように、自分の目の前から消えていった感覚だった。
後に、友人が自殺していたことが判明した。その知らせを聞いた瞬間、胸に重くのしかかるものを感じた。心の中に深い穴が開いたような感覚で、何をしても埋められない喪失感に襲われた。
俺は学校を辞め、アパートも引き払った。多分、これで終わりだろう。本当に最後として。
アパートを出てカプセルホテルに滞在していたある日、別の友人から電話がかかってきた。
「お前に嘘をついていたことを謝らなければならない。実はお前が友人について尋ねたとき、俺は既に友人が自殺したことを知っていたんだ。車庫で首を吊っていたんだよ。
通夜の夜、友人の親御さんに呼ばれて別室で話をした。『なぜ自殺したのか理解できない』と言われ、俺も『全く心当たりがない』と答えた。
すると親御さんが友人の携帯電話を見せてきた。友人はその携帯を握りしめたまま息絶えていたらしい。遺書は見つからなかった。
発信履歴を確認すると、珍萬軒という名前がずらりと並んでいた。友人はおそらく自殺直前まで珍萬軒に電話をかけ続けていたんだ。
着信履歴も見たら、お前の名前があった。お前からの電話を受けた友人はしばらく話した後、何度も珍萬軒に電話をかけたが繋がらなかった。そしてその後、友人は命を絶ったんだ……」
友人が珍萬軒に執拗に電話をかけ続けた理由は何なのか、何をそこに求めていたのか、それが理解できなかった。しかし、もしかしたら彼は何か重要な情報を知っていたのかもしれない。例えば、珍萬軒に店主と直接話す必要があったのか、あるいは何か危険な状況から逃れるために助けを求めていたのではないかと考えた。友人が何を求めていたのか、その切実さを考えると、そこに深い理由があったことは間違いなさそうだった。しかし、確実に何かが彼をそこまで追い詰めたのだということだけは感じられた。そして、その何かが今度は自分に向かっているのではないかという恐怖が、体の芯まで染み渡っていた。
俺はもう何も言えなかった。ただ、この街にいるのはよくないと感じた。何か災いが迫っているような感覚があった。どこに行けば安全なのかも分からなかったが、ここに留まるのは最悪の選択だと感じた。
だから、逃げることにした。どこに行けばよいのかは分からない。ただ、この場所にいる限り、何か得体の知れない災いが自分を追い詰めてくるという恐怖があった。毎晩、誰かに見られているような感覚、何かが背後に迫ってくる気配、そうした不安が日に日に増していった。このままでは精神的に耐えられなくなりそうだった。何も確かなことはないが、この場所を離れなければいけないという一心で、俺はこの街を後にすることを決意した。
さようなら……
(了)