中学の同級生から聞いた話を、あたしはいまだに自分の記憶から切り離せずにいる。
忘れようとしても無駄だった。思い出そうとしなくても、匂いや音のほうから勝手に戻ってくる。湿った夜気のざらつき。夏の終わり特有の、生温い風。そして、あの音。
あたしが大学進学で地元を離れていた頃、盆の帰省中に偶然、恵理と再会した。駅前の小さな居酒屋だった。彼女は昔と変わらず物静かだったが、顔つきが妙に痩せていて、笑うと頬の肉が不自然に引きつって見えた。酒が進み、取り留めのない昔話をしている最中、彼女は唐突に言った。
「今も、あそこには行かないようにしてる」
主語も説明もなかった。でも、その言い方だけで、あたしはすぐに思い当たってしまった。町外れにある、あの廃病院だ。
中学の頃、肝試しの定番だった場所。夜になると灯りがつくとか、誰もいないはずの病室から音がするとか、そんな噂ばかりが膨らんでいた。あたしは一度も近づいたことがない。けれど恵理は違った。怖いもの知らずで、先頭に立ってみんなを煽るタイプだった。
その恵理が、病院の話になると目を伏せる。その落差が気味悪くて、あたしは酔いに任せて続きを聞いてしまった。
――あの夜、恵理たちは自転車で病院に向かった。何人だったかは、彼女自身もはっきりとは言わなかった。ただ、「いつものメンバーだった」とだけ言った。門の鎖は外れていて、敷地に入ると草と鉄錆の匂いが混ざった空気が肺に入ってきたらしい。
正面玄関は塞がれていたから、非常口から入った。中は完全な暗闇で、懐中電灯の光だけが頼りだった。床には書類やガラス片が散らばり、歩くたびに乾いた音がした。消毒薬の甘ったるい匂いが、まだ残っていたという。
最初は笑っていた。ベッドを見つけては冗談を言い合い、怖さをごまかしていた。でも、二階に上がったあたりから、誰も声を出さなくなった。光の輪が壁の染みや剥がれを照らすたび、それが人の形に見えてしまう。見間違いだとわかっていても、視線を逸らせなかった。
そのとき、廊下の奥から音がした。
カチ、カチ。
一定の間隔で、乾いた金属音。時計だと思った。でも、妙に近い。歩みを進めると、音も同じだけ近づいてくる気がした。
帰ろう、という声が出かけた瞬間、恵理が前に出た。意地だったのか、いつもの癖だったのか、理由は語られなかった。奥の病室の扉を押すと、蝶番が軋んで開いた。
部屋の中央に、ベッドが一台あった。月明かりが差し込む中、そこに誰かが腰かけていた。
最初は動かない塊にしか見えなかった。白い布のようなものをまとい、背中を丸めて揺れている。揺れるたびに、あの音が鳴る。カチ、カチ。
点滴の金属が、ベッドの縁に当たっているのだと気づいたとき、全員が動けなくなった。
懐中電灯の光が、その顔を照らした。皮膚は紙のように薄く、目のあたりは窪み、口だけが不自然に開いていた。
「まだ……いるの……」
声がした瞬間、光が消えた。スイッチは入ったままなのに、真っ暗になった。暗闇の中で、音だけがはっきりと近づいてきた。
悲鳴が上がり、皆が走り出した。階段を転げ落ちるように降り、外に飛び出したとき、夜風が肺に刺さった。
そこで、数がおかしいことに気づいた。
何人で来たのか、誰もはっきり言えなかった。ただ、足りない感じだけが残っていた。自転車も、何台あったのか思い出せなかった。けれど、その場に残っている数が、どうしても合わない気がした。
それ以来、その話は口にされなくなった。名前も、人数も、誰が欠けているのかも、次第に曖昧になった。ただ、恵理だけが、夜になると耳の奥で音が鳴ると言った。
「カチ、カチって。自転車のベルみたいな音」
その手は、氷みたいに冷えていた。
あたしは、その夜の話を聞いただけのはずだった。
なのに、いつからか、深夜になると同じ音が聞こえるようになった。外からなのか、部屋の中なのか、わからない。耳を塞いでも、頭の奥で鳴り続ける。
カチ、カチ。
音は、あたしの呼吸に合わせて、少しずつ間隔を詰めてくる。
数を数えようとすると、なぜか途中でわからなくなる。
いま、ここにいるのは、本当に何人なのか。
[出典:933 :あなたのうしろに名無しさんが……:03/03/21 17:01]