あれは、ほんとうにあったことだったのか……自信がない。
四歳か、五歳の頃。遠い記憶の底に沈んでいる、ひどく静かな異常のことだ。
うちは、田舎の造りでね。母屋の裏に、かまどのある作業小屋がぽつんと建っていた。釜で赤飯を炊いたり、大量の煮炊きものをする時に使う、今で言えば“野外キッチン”みたいなものだったと思う。
その日、祖母がいつものように釜をはずして、外の水道で洗っていた。
私はその近くで、ひとり、泥の中に木切れを刺しては「おうち」とか言いながら、遊んでいた。
ふと、地面に置かれた黒光りする釜が目についた。
内側に水が溜まっていて、表面には油がうっすらと浮いていた。
虹色だった。あの、雨上がりの道路で見る、あれに似ている。
ただの油膜なのに、どうしてあんなにきれいなんだろう。マーブル模様が、ゆら……ゆら……と揺れて、渦を巻いて、まるで生きているみたいに形を変える。
祖母が「汚いから触るんじゃないよ」と言い残してどこかへ行ってしまったあとも、私は釜の中を、ずっと覗き込んでいた。
最初はただの油膜だったのに、次第に色が整い、かたちを持ち始めた。
三角屋根の建物、石畳の道路、見たこともない街並み。
まるで絵本の挿絵を動かしたような、けれど、それよりもずっと、ずっと細かくて、奥行きがあって、風の音がした。
気づいた時には、その街のなかに、私は立っていた。
空気が違う。
けれど、不思議と怖くなかった。むしろ楽しくて、きゃあきゃあと通りを走り回っていた。
何もかもが虹色で、まるで万華鏡の内側に放り込まれたようだった。
建物も、石畳も、行き交う人々の影すら、微かに七色に揺らめいていた。
でも、違和感もあった。
通りすがる人々は、みな私を見て、驚いたような、怯えたような顔をする。
すぐに視線をそらし、足早に立ち去っていく。
唯一、話しかけてきたのは、カップルだった。二人ともどこか人形のような顔をしていたが、言葉はなぜか通じた。
「きれいなものが見たいなら、教会に行くといい」
そう言って、まっすぐな道を指差した。
私はその言葉どおり、教会へ向かった。
街全体が、ぼんやりと光っている。
太陽は見えなかったが、影はあった。
教会の中は、街とは打って変わって暗かった。足音が吸い込まれて消えるような、妙な静けさ。
正面に、ステンドグラスがあった。
それは、ほんとうに綺麗だった。
生まれてから一度も見たことがないような、いや、“綺麗”という言葉すら薄っぺらく感じるほどの光だった。
色の洪水が、視界の奥をまっすぐ突き抜けて、頭の芯までじんじんと痺れさせる。
それを見ている間だけ、自分が自分ではないような感覚になった。
ふらふらと外に出ると、街はすでに黄昏のような光に包まれていた。
石畳に伸びる影が長くなっていて、どこか不安になる。
あれだけいた人々の姿も、今はほとんど見えない。
私はただ来た道を引き返すだけだったが、不意に、誰かとぶつかった。
まっ黒いスーツの男だった。
この街に似つかわしくない、現実的な格好。
年齢も見た目もよく覚えていない。ただ、びっくりするくらい怒っていた。
「なんでこんなところにいるんだ!」
と、声を荒げて私に詰め寄ってきた。
なんで……と言われても、わからない。
そう思った瞬間、私は、かまどの横に立っていた。
地面に置かれた釜の水は、祖母がちょうどひっくり返すところだった。
祖母に、「今すごい夢みたいなのを見て……」と話しかけたが、
「なに言ってるの」とだけ返された。私がしつこく説明しようとしても、もう話を聞く耳を持っていなかった。
あの街のことは、それで終わったと思っていた。
ところが、小学校に上がってから、二度ほど同じようなことがあった。
かまどの中の釜、水に浮かぶ油膜。
再び虹色の街が現れたが、あのときのように、中へは入れなかった。
まるで水面に張ったガラス越しに、遠くの景色を見ているような感覚だった。
三度目のとき、街の形は途中まで現れたが、にじんで崩れてしまった。
輪郭がつかめない。奥行きも深さも感じない。
「ああ、もうだめなんだな」と、そのときはっきり思った。
それ以降、釜の中に何を見ようとしても、ただの水と油しか見えなかった。
何年も経って、大人になってから――二十代後半、ネットの掲示板で「時空のおっさん」の話を見つけた。
異世界に入り込んだとき、スーツ姿の男が出てきて怒鳴る、というあのテンプレートのような体験談。
私は、そのスーツの男の顔を、いまでも思い出せない。
ただ、あの異様な街の風景と、ステンドグラスの光だけは、ありありと覚えている。
恐怖なんてなかった。ただ、ひたすらに、美しかった。
それが夢だったのか、あるいは――
……たった今、ここまで書いていて、ふと、背後のキッチンの蛇口に光が反射して、七色に揺れた。
心臓が跳ねた。
もう二度と行けない場所だとわかっているのに、身体が勝手に動こうとする。
今夜、夢を見たら、その街に、行けるだろうか。
(了)