港で船に乗る前、ばあさんはもう一度だけ同じことを言った。
「道に迷ったら、タバコ吸え。それだけは忘れんな」
それ以外の注意はなかった。キツネだの獅子だのの話もしなかった。むしろ、そういう話題を出そうとすると、ばあさんは露骨に話を切り上げた。
島は前と同じだった。上陸した瞬間、音が消える。波の音も、風も、虫もいない。自分の足音だけが、地面に吸い込まれるように鈍く返ってくる。花摘みといっても、決められた斜面に咲く白い花を根ごと掘り、袋に詰めるだけだ。名前は聞いていないし、聞く気にもならなかった。
作業は昼前に終わった。袋を三つ。前回より少し多い。ばあさんは数を確かめると無言で頷き、祠の方へ向かった。自分はその場で待つように言われていた。
十分ほど経った頃だ。空が、変だった。
雲が動いていない。というより、雲と雲の間に、不自然な空白がある。円でも楕円でもない、歪んだ人影のような空間。そこだけ、雨が降っていないのがはっきり分かった。距離感が狂う。近いのか遠いのか、目が判断を拒否する。
視線を外そうとした瞬間、足元の地面が緩んだ。
踏み固めたはずの道が、いつの間にか獣道のように細くなっている。左右の木立も、見覚えがない。振り返ると、さっきまで見えていた浜がない。ばあさんの祠も消えていた。
道に迷った、と理解した瞬間、背中に汗が噴き出た。
そのとき、ばあさんの声が頭に浮かんだ。
「道に迷ったら、タバコ吸え」
普段は吸わない。一本だけ、非常用に持っていた。ライターもある。取り出そうとして、手が止まった。意味が分からない。吸ったところで、どうなる。むしろ、ここで煙を出す方が危険じゃないのか。そんな考えが一瞬よぎった。
その瞬間、足音がした。
後ろからでも、前からでもない。すぐ横だ。気配だけが、ぴったりと並んで歩いている。視界の端で、何かが動く。見てはいけない気がした。
喉が鳴った。逃げたい。でも、どちらに進めばいいか分からない。
タバコを咥えた。ライターを擦る。火がつかない。もう一度。三度目で、ようやく小さな火が上がった。
吸い込んだ瞬間、咳が出た。
その拍子に、周囲の景色が、ずれた。
木々の間に、一本道が現れた。さっきまで無かった、はっきりした下り道だ。足音は消えている。背後の気配もない。ただ、煙だけが妙に重く、空に上がらずに自分の周囲に溜まっていた。
道を下ると、浜に出た。ばあさんが、何事もなかったように立っていた。
「遅かったな」
それだけ言って、袋を受け取る。自分がタバコを吸ったことには、触れない。祠に戻る途中、浜の端に、もう一人、人がいるのに気づいた。
若い男だった。年は自分と同じくらい。ぼんやりと海を見ている。声をかけようとしたが、ばあさんが袖を引いた。
「見るな」
船に戻るとき、人数を数えた。行きは三人だった。戻りは二人だ。
帰りの船で、ばあさんがぽつりと言った。
「前の子な、タバコ嫌いやったんや」
それ以上は何も言わなかった。
港に着くと、店長が待っていた。金はきっちり封筒に入っていた。前回より多い。
「また来るか?」
聞かれて、即答できなかった。島の方角を見ると、雲の切れ間に、あの歪んだ空白が、まだ残っている気がした。
その夜、夢を見た。
煙の中で、誰かが道を探している。声をかけようとすると、その人物がこちらを向いた。口が動いたが、音は出ない。代わりに、首元から、煙が漏れ出していた。
目が覚めると、枕元に、吸い殻が一本落ちていた。自分の部屋では、絶対に吸っていないはずのものだ。
それ以来、タバコを捨てられずにいる。吸う気はない。ただ、持っていないと、道がどこかへずれてしまう気がする。
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