今でもあの夜の玄関に立ち尽くした影を思い出すと、心臓の奥がひやりと冷える。
私は祖父のことが人一倍好きだった。背が高く、腹の出た体格をしていながら、眼差しは穏やかで、滅多に多くを語らなかった。しかし黙しているだけで、その沈黙の中に人の痛みを汲み取る力があった。子供の頃、私が泣きながら帰宅すれば、何も言わずに温かい湯を張った風呂を指差し、ただそれだけで慰めてくれた人だ。
だが病は残酷で、三年に及ぶ闘病の末、祖父は痩せ細り、言葉も不自由になっていった。お見舞いに行くたび、彼の頬には涙が伝い、私が「また来るね」と言えば震える声で「ありがとう」と返してくれる。それは生きているというより、私に感情を託そうと必死に繋ぎとめているような姿だった。
最期の時期、私は引っ越しの準備に追われ、運悪く携帯も停まっていた。親にも新住所を伝えていなかったため、祖父が亡くなったことを知らされたのは葬儀が終わってからだった。死に目にも会えず、線香すらあげられず、ただ布団の上で声を殺して泣くしかなかった。胸を締め付けるような後悔は、日々の生活を鈍色に塗りつぶした。
一年ほど経ったある夜、祖父の写真を胸に抱えたまま泣き疲れて眠り込んだ。その時だった。
カン、カンと規則正しくドアが叩かれた。寝ぼけ眼で耳を澄ませると、二度三度、遠慮がちな音。普段なら覗き穴を覗くはずの私が、その時に限って何の確認もせずに扉を開けてしまった。
そこに立っていたのは、真っ白な帽子とスーツに身を包んだ若い男と、無言のままの祖母だった。
スーツは現代のものではなく、どこか昭和初期の映画で見たような古風な仕立て。男は二十代半ばほどに見えたが、顔を見た瞬間、言葉にならない確信が胸に走った。――祖父だ、と。
「おじいちゃん!」と叫ぶと、堰を切ったように涙が溢れた。
「ごめんなさい……葬式に行けなくてごめんなさい……」
何度も頭を下げ、謝罪の言葉しか口から出なかった。
祖父は、若き姿のまま私を見つめ、穏やかに言った。
「もう気にしてない。大丈夫だ。泣くな。おじいちゃんは、そろそろ逝くから、元気でな」
その声は、痩せこけた病床で聞いた掠れ声とは違い、澄んでいて力強かった。言葉を終えると、大きな手が私の頭を軽く二度ほど叩いた。幼い頃、褒める時にしてくれた仕草と同じだった。
次の瞬間、祖父はすっと玄関の外へ歩み出て、輪郭が薄れていった。バタンと扉が閉じる音が響き、私は跳ね起きた。夢かと疑ったが、鍵を常に掛けているはずのドアがその時だけ開いていた。指で撫でると金属がひんやりして、夢で済ませられない現実感が残っていた。
奇妙なのは、そこにいた祖母の姿だった。現実のままの老いた容貌で、私に視線を向けることもなく、声を発することもなかった。まるで祖父に付き添う影として存在していたかのように。
数日後、祖母にこの話を打ち明けると、彼女は驚く様子もなく、「死んだ人の魂は一番幸せだった頃の姿に戻るらしいよ」と言った。そしてアルバムを取り出し、三十代の頃の祖父の写真を見せてくれた。そこに写る顔は、あの白いスーツの青年と瓜二つだった。
祖母は静かに付け加えた。「あんたが泣いてばかりだから、安心させに来たんだろうね」
その言葉に胸が詰まり、私はただ写真を握りしめた。
けれども不思議なのは、なぜ祖母が祖父に付き添って現れたのか、という点だ。今も健在のはずの祖母が、あの時だけ冷たい影のように黙していたのはなぜなのか。私には未だに分からない。
祖父は本当に成仏する前に、私に別れを告げに来たのだろう。だが、扉の外でふっと消えたあの白い姿は、今も時折夢の中に現れる。頭を軽く叩く仕草と共に。
私はそれに目を覚まし、鍵を確かめる。どんなに確かめても、いつも閉まっている。けれどあの夜だけ、確かに開いていた。
そして最近、ふとした瞬間に背後に視線を感じることがある。振り返っても誰もいない。
祖父なのか、それとも、あの夜黙したまま立っていた祖母の影なのか――私はまだ答えを見つけられずにいる。
[出典:442 :祖父:2009/06/30(火) 01:42:09 ID:1BOc4NXmO]