父親は小さな豆腐工場の副主任として定年まで働いていた。
夜勤の仕事だったため、出勤は夜9時ごろ、帰宅は午前中。おそらく、朝のスーパーに並ぶ豆腐を作るために深夜の作業が必要だったのだろう。平日は昼間に寝ていたが、土日になると3人の子供たち、特に俺を連れて遊びに行ってくれた。その頑張りを、当時は当たり前のように感じていたが、今になって振り返ると、本当に無理をしていたのだと気づく。
ただし、父親は典型的な亭主関白タイプだった。短気で、何かあればすぐにげんこつが飛んできた。その見た目も、まるでゲームに出てくるガノンドロフのようで、子供の俺にとっては恐怖の対象だった。
俺の実家は、離島の小さな町。住所に「大字」がつくような場所だった。当時は近所のつながりが強く、新聞の集金のおばちゃんや薬箱の補充に来るおじさんなど、家に来る人の顔はほとんど知っている。新聞集金のおばちゃんは近所に住んでおり、彼女の旦那さんは地域の公民館で子供たちに相撲を教えるような人だった。
父親も町の祭りや行事には適度に参加し、町のおじさんたちに顔を知られていた。そのおかげで、俺も「○○さんの息子」として認識されていた。今では考えられないことだが、夏休みになると町に一軒しかない個人商店で父親にビールの買い物を頼まれた。小学生の俺でも、特に問題なく6缶パックを買うことができた。レジのおばちゃんも気にする様子はなく、それを渡してくれた。
小学5年の夏休み、部活を終えて家に帰ると、父親からいつものようにビールの買い物を頼まれた。千円札を握りしめて商店へ向かい、6缶パックと500mlを2本買い、ついでにチョコバットも追加した。お小遣い制ではなかったため、釣り銭は貴重な収入源だった。父親の頼み方が横柄だったので、500mlのビールをシェイクして、開けたときに溢れるようにと小さな復讐を企てた。
家に戻ると父親は電話中だった。チョコバットを食べていると、父親が電話を終えて「新聞集金のおばちゃんが行方不明になったらしい」と話してきた。相手は町内会のおじさんで、おばちゃんが昨日から帰っていないとのこと。捜索願も出され、町内会で捜索が行われる予定だという。しかし父親は仕事があるため参加を断った。そして、500mlのビールを開けようとして溢れ出た様子に気づいたが、俺は怒られる前に2階へ逃げ込んだ。
その夜、リビングでテレビを見ていると、階段を降りる父親の足音が聞こえた。出勤前の10時ごろ。通常ならこの時間にテレビを見ていると怒られるため、俺は急いでテレビを消し、ポケモンの攻略本を読むふりをした。しかし、この日はいつもと違っていた。
「さっき夢でおばちゃんに会った」。父親がそう母親に話し始めた。
父親の夢によれば、リビングにいると玄関のチャイムが鳴り、擦りガラス越しに赤いジャンパーが見えた。それは、新聞集金のおばちゃんがいつも着ていたものだった。父親が玄関を開けると、おばちゃんが立っていた。しかし、いつもの気さくな挨拶ではなく、ただ「○○さん」と父親を呼ぶだけ。どこか様子がおかしかったという。
夢の中では、おばちゃんが行方不明である現実を父親は思い出せず、挨拶をして集金分を支払おうとした。そのとき、おばちゃんが突然「私、今□□トンネルの横にいるのよ」と泣きそうな顔で告げた。その言葉で父親はぎょっとして目を覚ました。
□□トンネルは島内の山中にあり、車で30分ほどの場所にある。
父親はそのまま出勤した。俺は再びテレビを見ようと思ったが、そのまま寝てしまった。
次の日、部活を終えて帰宅すると、父親が電話で話し込んでいた。電話を終えると、俺に制服に着替えるよう指示し、自身は黒いスーツに着替えていた。父親の口からおばちゃんが見つかったこと、すでに亡くなっていたことが告げられた。首つり自殺だったらしい。場所は□□トンネルの横の倉庫の裏。
父親とともにおばちゃんの家へ向かうと、すでに町内の人々が喪服姿で集まっていた。普段は穏やかな旦那さんが涙を流している姿が印象的だった。その後、詳しい事情は語られず、おばちゃんの家族もいつの間にか町からいなくなってしまった。
父親の表情が印象的だった。あの日の父親は、ガノンドロフのようではなく、どこか神妙だった。
高校を卒業してから、俺は実家を離れた。東京、大阪、名古屋と都市部を転々とし、実家とは距離を置いた生活を送った。成人式の時に一度帰省したが、些細なことで父親と喧嘩をして以来、実家には戻っていなかった。
去年、結婚を機に久しぶりに帰省した。かつて怖かった父親はすっかり変わっていた。禿頭になり、体も小さくなり、表情も穏やかそのもの。俺の妻に向かって、「こんな男をもらってくれてありがとうね」と、西田敏行のように涙を流しながら感謝していた。母親も同様に、すっかり年老いてしまっていた。その姿を見て、もっと頻繁に帰省しなければならないと心に決めた。
2か月前、奇妙な夢を見た。実家のリビングにいる自分。体は現在の自分で、夢を見ているという自覚もあった。すると玄関のチャイムが鳴り、擦りガラス越しに人影が映る。背格好から察して、それが父親であると分かった。しかし、俺はドアを開けなかった。この話を思い出したからだ。俺は2階の自分の部屋に逃げ込んだ。チャイムは何度か鳴り響いたが、しばらくすると止み、そのまま目が覚めた。
目覚めてすぐに母親に電話をした。そのとき初めて父親ががんを患っていると知らされた。帰省していた頃にはすでに発覚していたが、心配をかけたくないという理由で子供たちには黙っていたという。年齢的にも転移の可能性があるため、頻繁に通院しながら経過を見守っているという話だった。
あの夢以来、何度か同じ夢を見るようになった。リビングにいる自分、鳴り響く玄関のチャイム、擦りガラス越しの父親。だが、決してドアを開けない。これは決意表明でもある。これからも絶対にドアを開けないとここに書き留めておく。
父親が夢に現れる理由が何なのか、なぜ俺に訴えかけてくるのかは分からない。だが、それでも現実で父親にできることはある。実家にもっと頻繁に顔を出し、父親の病を見守りながら、少しでも力になろうと思う。そして、夢の中ではドアを開けない。それが、今の俺の選択だ。
[出典:295 :本当にあった怖い名無し:2024/01/15(月) 14:18:15.87 ID:cTI1MuTE0.net]