叔母は、生まれつき、見える人だった。
霊だとか、気配だとか、過去だとか。そういう輪郭の曖昧なものが、布の皺や汗の染みに引っかかって、浮かび上がるのだと言っていた。
若い頃は、それをひた隠しにしていたらしい。だが五十を過ぎた頃から、人の相談を受けるようになり、噂が噂を呼んだ。いつの間にか、近所では「霊視のおばさん」で通る存在になっていた。知らない者はいない。遠方から訪ねてくる人も珍しくなかった。
私も何度か見てもらったことがある。当たるかどうか以前に、彼女が“視ている最中の目”を見ると、余計な質問をする気は失せた。覗き込んではいけない深さが、あの目にはあった。
私は、叔母を怖れていた。
そんな叔母のもとに、ある日、知人の吉田さんから連絡が入った。ローカル局のディレクターで、心霊特集も担当している人物だ。テレビの企画で、霊視に協力してほしいという。
内容は単純だった。数年前に姿を消した父親を、霊視で探す。家族は母親と、成人した息子と娘。事件性はなし。捜索願も出していない。理由は語られなかった。
叔母は、電話口ですぐには返事をしなかった。沈黙が長すぎて、こちらが不安になるほどだった。結局、吉田さんの顔を立てる形で、渋々うなずいた。
撮影当日、私は助手のような立場で同行した。
インタビューは滞りなく進んだ。母親は背中を丸めて泣き、息子と娘は静かに目を伏せていた。吉田さんは何度も頷き、モニターを確認していた。画としては、十分だったのだと思う。
そのあと、叔母が呼ばれた。
父親が最後に身につけていたというシャツが差し出される。無地の白いYシャツ。襟元が、汗と皮脂でくすんでいた。
叔母はそれを受け取り、両手で包み込んだ。目を閉じ、浅く息を吸う。いつもなら、ここからだった。何かを掴んだように語り始める。

だが、その日は違った。
沈黙が続いた。
長すぎる沈黙だった。誰かが咳払いをし、カメラマンが立ち位置を微調整した。それでも、叔母は何も言わない。唇がかすかに動いたように見えたが、音にはならなかった。
吉田さんが、堪えきれずに声をかけた。
「なにか……視えましたか」
叔母は一瞬だけ顔を上げ、すぐに視線をシャツに戻した。首を、ほんのわずかに振った。
もう一度聞いても、反応は同じだった。
普段の叔母を知っているスタッフほど、異様さを感じていたはずだ。饒舌で、自信満々で、意味の分からない比喩まで連ねる人間が、布切れ一枚の前で黙り込んでいる。
空気が重くなった。
「……厳しいな」
吉田さんが額を押さえ、小声で呟いた。尺が足りないだの、編集で誤魔化すしかないだの、そんな言葉が飛び交った。結局、その場はそれ以上続けられず、霊視のシーンは成立しないまま撮影は終わった。
帰りのマイクロバスの中でも、誰も口を開かなかった。
吉田さんだけが助手席で電話をしていた。声の調子は明るく、何かを立て直そうとしているようだった。
叔母は、座席の隅でシャツを膝に置いたまま、じっとしていた。布を見ているというより、布の向こうと向き合っているように見えた。
やがて電話を切った吉田さんが、軽い調子でこちらを振り返った、そのときだった。
叔母が立ち上がった。
背筋が伸び、顔色は紙のように白いのに、目だけが異様に冴えていた。バスの通路を数歩進み、吉田さんのすぐ前に立つ。
「言えなかった」
低い声だった。
「……何を」
吉田さんが戸惑って聞き返す。
「見えなかったんじゃない。言えなかった」
叔母はそう言って、シャツから手を離した。
「そこにいる人たちが、全部、こちらを見てた。あの家で。あの人を、探してる顔で」
誰も口を挟めなかった。
「布に残ってたのは、逃げた人の気配じゃない。戻れなくなった人のものでもない。……あれは、黙っている側の重さだ」
吉田さんは何か言おうとして、言葉を失った。
「私に何を喋らせるつもりだったんだい。あの場で。あれを前にして」
叔母はそれだけ言い、元の席に戻った。
そのあとは、何もなかった。
後日、企画はなかったことになった。撮影した映像も使われなかったと聞いた。吉田さんはしばらくして部署を移ったらしい。
あの家族について、その後の話はない。ニュースにもならず、誰も何も調べなかった。
叔母は、あの日を境に、人の相談を一切受けなくなった。霊視もやめた。
そして、あのシャツは、返されなかった。
いまでも時々思う。
あの沈黙は、見えなかったから生まれたものじゃない。
見えてしまったのに、誰にも渡せなかったものが、あそこに残っていたのだと。
(了)