あれは平成八年、高三の秋口だった。
俺は北のほうの寒村に生まれ育って、何もない町で、娯楽も刺激もろくにない。そんな町に腐る寸前の俺たちが、当然のように憑かれたように集まっていたのが、例の廃神社だった。
鬱蒼とした木立に埋もれ、道なき道を抜けなければ辿り着けないような場所。社の屋根は抜け、賽銭箱には雨水が溜まり、祠には蜘蛛の巣がびっしりと絡んでいた。
だが、誰も来ないというそれだけで、俺たちには十分だった。
煙草を吸い、安酒を回し、誰かがギターを弾き出す。いつも、同じ顔ぶれだった。小倉、山崎、三宮。ときどき藤田や遠藤も加わった。七人の夜、三人の夕暮れ、そんなふうに時間が流れていた。
あの日もそうだった。十一月の、乾いた風が頬に突き刺さる午後四時過ぎ。俺たちは四人、自転車を漕いで神社に向かっていた。落ち葉を踏みしめる音が、ガサガサと耳に響く。煙草を咥えながら、何気ない話をしていた。
その時だ。
「ザッ、ザッ、ザッ」
足音が、境内の方から聞こえてきた。誰か来た? この神社に?
疑念が喉に引っかかった。見れば、木立の隙間から現れたのは、小柄な老婆だった。
白髪を束ね、真っ黒な着物を着ていた。
異様だった。明らかに異質だった。
我々は声も出せず、動きも止めた。
老婆はまっすぐ賽銭箱の前へ進み、低く、地を這うような言葉で呪文のようなものを唱え始めた。言葉の意味は分からない。だが音だけで、体の奥がざわついた。
やがて老婆は鞄を賽銭箱の裏に置いて、そのまま来た道を戻っていった。
誰もが沈黙を破るのが怖かった。
ようやく空気が動いたのは、小倉が鞄を手にした時だった。
「札束か?宝物か? なんでもアリだろ、こんな状況なら」
俺は止めたかった。けれど止めきれなかった。
鞄の中身は、黄ばんだ新聞、異国の紙幣、潰れかけたお守り、読み取れないレシート、そして――一つの木箱だった。
手のひらよりやや大きいくらい。重々しく、異様に黒光りしていた。
「……開けてみようぜ」
小倉の声が変わった気がした。
いや、変わったのは声ではない。目だ。目が、濁った魚のようだった。
山崎も加勢し、木箱は地面に叩きつけられた。
俺と三宮が制止しても、まるで耳に届かない。歯を食いしばり、血走った目で木箱を睨み、二人は獣のように叫んでいた。
「開ける!開けてやる!」
三宮の顔が蒼白になっていく。俺も同じだった。異常だった。二人の動きも、空気も、音のない空の色も。
やがて、俺は走り出していた。神社の階段を駆け下り、置いてきた自転車に飛び乗った。その時、ふと見えた。
道の向こう。木々の隙間。あの老婆が、こちらではなく神社を見て笑っていた。口角が耳まで裂けそうに、奇妙な満足そうな笑みだった。
俺は恐怖に突き動かされるようにペダルを踏んだ。
藤田の家に着いた時、説明もまともにできないまま、藤田は察してくれた。
遠藤にも連絡し、俺たちは再び神社へ戻ることにした。
あの日の、俺の記憶はそこで途切れる。
次に目を開けた時、俺は病院のベッドにいた。
腕に包帯、足にギプス、体中に鈍い痛みが走る。母の泣き顔、医師の声、看護師の気配。だが、何より恐ろしかったのは、自分の中の空白だった。
事故? トラック? そんなはずはない。
神社にいたはずだった。小倉と山崎はあの箱に取り憑かれていた。藤田は俺と一緒にいた。
……なのに、ニュースは俺たちが四人、帰宅途中に事故に遭ったと報じていた。即死が二人、重体が一人、奇跡的に意識を取り戻した俺。
三宮は逃げていた。
後に見舞いに来た彼は、泣きながら言った。
「あいつらが箱を開ける!開ける!って叫びだして……それが怖くて、逃げた」
遠藤は神社に行ったが、そこには「別の誰か」がいたと言った。暗がりの中、違う空気の連中がいた、と。
やがて藤田も亡くなった。トラック運転手は精神異常を患い、事故後に自殺未遂。何も語れぬまま入院。
忌まわしい結末ばかりだった。
俺は地元を離れ、連絡を絶った。
それから十二年。
父が亡くなり、久々に地元へ帰った。何かに引き寄せられるように、俺は再びあの神社へと足を運んだ。
神社は……整備され、清浄だった。
少女が箒で掃いていた。髪の長い美しい子だった。なぜか、その姿が恐ろしく感じられた。
俺は話しかけた。十数年前のことを、彼女に話した。彼女は神主を呼びに行った。
現れたのは白髪の上品な老人。俺はすべてを話した。神主は深く頷きながらこう言った。
「あれは『忌箱』……冥界の門とでも言いましょうか。開けてはならぬもの。かつての神主も、それを調べようとして……いなくなりました」
俺は震えた。
神主は俺のために、お祓いの儀をしてくれた。長い祈祷の間、少女は静かにこちらを見つめていた。
最後に、神主は言った。
「忘れなさい。あれは通り魔のようなもの。記憶する者が呑まれるのです」
東京に戻った今、俺は三日に一度、夢を見る。
あの日の続きを。
……俺たちはあの箱を開けてしまったのだ。
誰の手によってかは分からない。
もしかすると……あの日、神社に戻った俺と藤田が――開けてしまったのかもしれない。
内容は……口にはできない。
言葉にしたら、あれがまた――目を覚ましてしまう気がするから。
(了)
[出典:145 :本当にあった怖い名無し:2009/07/20(月) 18:24:05 ID:Ygft2tbPVr]