『そういえば叔母さんは元気?』
その一言を口にするたび、家の空気が変わる。
きっかけは、三歳か四歳の頃の記憶だ。夏の夜、母方の祖父母の家。縁側の奥で、母の妹と、その婚約者が並んでいた。蚊取り線香の煙がゆらぎ、婚約者の頬にとまった蚊を、叔母が軽く叩き潰す。ぱちん、と乾いた音。二人は笑っていた。煙の匂いと、湿った夜気。それだけの、ありふれた情景だ。
はずだった。
その夜、台所で母が皿を洗っている背中を見て、私は何の前触れもなく言った。
「そういえば叔母さんは元気?」
皿が滑り落ち、床で砕けた。母はゆっくり振り向いた。血の気が引き、唇がわなないている。
「そんな人、いないって……何度言わせるの」
言葉の後半は崩れていた。父が駆け寄り、母を寝室へ連れていく。残された私は、椅子に座ったまま動けなかった。
やがて戻ってきた父は、私の向かいに座った。
「この話は初めてじゃない」
低い声だった。
「お前は小学生の頃から、毎年夏になると同じことを言う。母に妹はいない。婚約者もいない。でもお前は、必ず覚えていると言い張る。そして翌日には全部忘れる」
冗談にしか聞こえなかった。私は初めて口にしたつもりだった。
「精神科にも行った。神社にも連れて行った。お前はそのことも覚えていない」
父の目は、何かを諦めた人間の目だった。
ならば、忘れなければいい。私はその場で決めた。徹夜をする。記録を残す。机の上にメモを置き、スマホにアラームを設定し、手帳に大きく書く。《忘れるな》。
夜は静かに更けた。窓の外で風鈴が鳴っていた。朝になっても、私は覚えていた。叔母のことも、父の言葉も、決意も。
だが一つ、辻褄が合わない。
私はもう三十に近い。もし父の言う通りなら、去年も一昨年も、同じことをしたはずだ。徹夜をし、記録を残し、翌朝に確認したはずだ。
なのに、何も残っていない。
引き出しを空にし、古いノートをめくり、スマホの履歴を遡る。空白だ。アラームの履歴も、メモも、写真もない。削除した記憶もない。
もしかすると、去年の私は「削除したこと」まで忘れているのかもしれない。そう考えた瞬間、背中に汗がにじんだ。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
覗き穴の向こうに、女が立っていた。白いワンピースに麦わら帽子。蚊取り線香の煙の向こうで笑っていた、あの顔。
足が勝手に動く。ドアノブを握る。
「久しぶり」
口元だけが笑っていた。
次の瞬間、視界が途切れた。
気づけば、私は食卓に座っている。朝の光。母が味噌汁をよそっている。
喉の奥から、言葉がこぼれる。
「そういえば叔母さんは元気?」
母の手が震え、汁がこぼれる。
既視感ではない。反復だ。
私は今、今年の最初の夜にいるのか、それとも何度目かの終わりにいるのか分からない。ただ一つ確かなのは、あの女が来るたび、何かが「正しい形」に戻されるということだ。
そして私は、毎年きちんと座り直し、同じ問いを口にする。
忘れているのは記憶ではない。
忘れさせられているのが、どちら側なのかが分からないだけだ。
[出典:301 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2016/07/16(土) 07:08:59.35 ID:pL7fDlFB0]