『そういえば叔母さんは元気?』
あの夜、どうしてあんなことを口にしてしまったのか、今でもわからない。
夕食を終えて、台所で母が食器を片付けていた時だった。急に思い出したのだ。三歳か四歳の頃、夏の夜。母方の祖父母の家に家族で泊まりに行った時のこと。縁側の奥で、母の妹――叔母とその婚約者が、蚊取り線香の煙に包まれて笑っていた。婚約者の頬に蚊がとまり、叔母が軽くビンタをして潰す。笑い声と煙の匂い。それだけの、ただの思い出。
……はずだった。
「そういえば叔母さんは元気?」
言った瞬間、母の手から皿が滑り落ち、硬い床に砕けた。
振り向いた母の顔は、血の気を失っていた。
「そんな人たち居ないって、何度言ったら……!」
声が震えていた。口の端から、意味を結ばない早口の言葉が溢れる。ふじこふじこという、壊れた機械みたいな音。
父が駆け寄り、母を抱えて寝室に連れて行く。その背中が小刻みに震えていた。
残された私は、食卓の椅子に座ったまま、ただ呆然としていた。
少しして父が戻ってきた。
「……この話、前にもしたことがあるんだ」
低い声でそう言い、私の前に腰を下ろす。
「お前は、小学生の頃から毎年、夏になるとこの話をしてくる。母には妹なんていないし、婚約者の話なんか現実にはなかった。でも……お前は必ず覚えてるつもりで聞いてくる。納得しないようだけど、その夜のうちに話は終わる。そして……翌日には、全部忘れてる」
父はそこで黙った。
意味がわからなかった。私は初めて聞いたつもりだった。忘れていたなんて、そんなはずはない。
「精神科にも、神社にも連れて行ったことがある。でもな……お前はそのことも覚えてないんだ」
冗談みたいな話を、真顔で言う。笑うことができなかった。
「何を言ってるの。そんなこと、あるはずない」
しかし、父の目には何か確信のような、諦めのような光があった。
もし本当に翌日には忘れるのだとしたら――じゃあ今夜は徹夜をして、絶対に記憶を手放さないようにすればいい。
私はそう決め、父にもそう宣言した。メモを残し、机の上に置く。スマホにもアラームを設定し、紙の手帳にも太字で「忘れるな」と書いた。
夜は静かに過ぎた。窓の外では、どこかの家の風鈴が鳴っていた。朝になっても、私はまだ全てを覚えていた。勝った、と思った。
けれど、一つだけ妙なことに気づいた。
私はもう三十に近いのに、去年や一昨年、さらにその前も、同じ検証をしたはずだ。記憶が正しければ、毎年同じ夏の夜に「忘れないように」と徹夜をしたはずだ。
なのに、その記録がどこにもない。
机の引き出しを全部ひっくり返しても、ノートやメモが一切残っていない。パソコンのメモ帳アプリにも、スマホのアラーム履歴にも、痕跡がない。
いつ、どうやってそれらが消えたのか。私が自分で捨てたのか。そんな記憶はない。
……いや、もしかすると、去年の私は「捨てた記憶すら持っていない」状態で、今と同じことを考えていたのかもしれない。
考えれば考えるほど、胃の奥が冷たくなる。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
覗き穴から見えたのは、笑顔の女だった。白いワンピース、麦わら帽子。記憶の中の叔母の姿そのままだった。
足が勝手に動き、ドアノブに手をかけていた。
「久しぶり」
口元だけで笑うその顔を見た瞬間、頭の中で何かが崩れる音がした。
気づけば、私は椅子に座って朝食を食べていた。母が目の前で味噌汁をすくっている。
「そういえば叔母さんは元気?」
自分の口からその言葉が漏れた。
母の手が震え、汁がこぼれる。
同じ光景。繰り返される夏。
そして、私は今も、それが今年の最初か最後かを思い出せないままでいる。
[出典:301 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2016/07/16(土) 07:08:59.35 ID:pL7fDlFB0]