二週間前に今の部屋へ移った。
鍵も新しく、郵便受けも内側からしか触れない構造だ。深夜三時を過ぎても、何の音もしない。静かすぎるほどだ。だが静寂は安心にはならない。前の部屋で起きたことが、まだ身体のどこかに残っている。
前のマンションは築三十年を超える古い建物だった。薄暗い共用廊下、塗装の剥げた鉄扉、頼りない郵便受け。特別な事故物件でもない、ごくありふれた一室だった。
異変は、深夜三時過ぎに始まった。
「パカッ」
郵便受けの蓋が開く音。金属が弾かれる乾いた響き。しばらくして「パタン」と閉じる。だが足音も気配もない。新聞配達の時間ではないし、チラシが入るわけでもない。
最初は偶然だと思った。風か、金具の歪みか。友人に話せば「古い建物ならあるだろ」と笑われた。俺も笑った。だが毎晩同じ時刻に鳴るとなれば、笑い話では済まない。
郵便受けには内側に目隠しカバーがあり、直接は覗けない。だから余計に想像が膨らんだ。外に誰かが立っているのか、それとも立っていないのか。
そこで思いついたのが、後付けのモニター付きインターホンだった。ボタンを押せば外の様子が映る。玄関を開けずに確認できる。合理的な判断のはずだった。
ある夜、例の音が鳴った。
「パカッ」
胸が強く打つ。俺は息を殺してモニターのスイッチを入れた。画角は狭い。通常なら立っている人物の上半身が映る位置だ。しゃがんだ顔など映らない。
だが、画面の下端に、何かが触れていた。
指先だった。
カメラのすぐ前で、爪先をひっかけるようにして、ゆっくりとレンズをなぞっている。白く細い指。関節の動きが妙に滑らかで、生き物というより、糸で吊られている人形のようだった。
姿勢が理解できない。どうすればその位置に指が来るのか。呼吸が乱れ、俺は玄関とベランダの鍵を確認した。どちらも閉まっている。再びモニターを見ると、指はまだそこにあった。
優しく、一定の速さで、延々と。
モニターは一分で自動消灯する。消えるときに小さな電子音が鳴る。緊張のあまり、俺はスイッチから指を離していた。
「ピッ」
室内に響いたその音と同時に、
「ピンポンピンポンピンポンピンポン……」
呼び鈴が連打された。画面が再点灯しても映るのは指だけ。次の瞬間、手のひらが映った。呼び鈴を叩き、擦り、また叩く。一定のリズム。遊んでいる子供のように無邪気で、だからこそ異様だった。
動けなくなった俺は風呂場に半身を隠し、叫んだ。
「警察呼ぶぞ!」
静寂のあと、女の声が返る。
「……え?なんで?」
高く細い声。驚いたような調子だった。怒鳴り返す。
「警察呼ぶからな!」
「……呼んじゃうの?」
少し間があき、郵便受けが閉じる音がした。
翌朝、玄関に立った瞬間、足が止まった。郵便受けから髪の毛が溢れている。束ねられていない長い毛が、隙間から垂れ下がっている。蓋を開けると、中でとぐろを巻いていた。
触れられなかった。出勤を優先し、そのまま家を出た。その夜は同僚の家に泊まった。だが翌朝、同僚の郵便受けからも髪の毛が出てきた。量は少ない。だが確かに、そこにあった。
以降、異常は加速した。腐敗した缶詰、ゴキブリ、錠剤の山。モニターに映るのは、ざんばら髪の女が舌の上で錠剤を転がす様子だった。吐き出し、また飲み込み、郵便受けに詰める。その動作を何度も繰り返す。顔はほとんど映らない。だが視線だけは、常にこちらを向いている気がした。
ある晩は仔猫の死骸が置かれた。翌朝には、潰れた肉片が広がっていた。警察に相談しても「実害は軽微」と処理される。証拠も決定的ではない。
ドアには赤い円と俺の名字。郵便受けには猫の足。部屋の中には、いつの間にか札が増えていた。
『太郎 好 愛 欲 狂 死 幸 花子』
俺の名と、知らない女の名。死角という死角に黄ばんだ紙が貼られていた。シーツには画鋲、枕の中にも画鋲。洗濯ばさみには髪の毛が一本ずつ結び付けられ、知らない下着が干されている。冷蔵庫には血のような液体。弁当箱には虫。
部屋が俺を拒絶しているのか、俺が部屋を侵しているのか、わからなくなった。
引っ越しを決め、荷物を運び出した。最後にドアノブを回したとき、そこに長い髪が一本、リボン結びにされていた。
それだけだった。
新しい部屋では何も起きない。三時を過ぎても音はしない。だが俺は毎晩、耳を澄ます。静寂の中で、あの「パカッ」という音を待っている。
待っているのは、俺のほうかもしれない。
郵便受けは内側からしか開かない構造だ。それでも三時になると、なぜか胸が高鳴る。もし今、蓋が開いたら。もし誰もいないはずの廊下に、またあの指が触れたら。
俺は確認するだろうか。
それとも、もう一度スイッチを押してしまうだろうか。
――いまも三時を過ぎた。
何も鳴らない。
だが、静かすぎる。
(了)