中学の頃だった。家の裏にあるS山を、五人で登った。
正規の登山道を使うのが、なんとなく癪だった。
誰が言い出したわけでもなく、獣道にもならない斜面や木立の隙間を、体を捻りながら進んだ。枝が腕に絡み、靴底が湿った土を噛む。汗と草いきれで肺が重くなり、息を吸うたび、喉の奥がひりついた。
もう引き返そうかと思った瞬間、視界が急に開けた。
そこに、寺があった。
瓦屋根の低い建物と、すぐ横に寄り添うような小さな家。どちらも山の中に置き忘れられたように静かで、鳥の声さえ途切れていた。
境内に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
匂いでも音でもない。体の内側の圧が、ふっと下がる感じ。
地面には白い衣が何枚も落ちていた。神主や巫女が着るような、あの白。だがどれも泥にまみれ、黄ばみ、布の張りが死んでいる。捨てられているというより、投げ出されたまま時間が止まったようだった。
寺の扉に鍵はかかっていなかった。
中を覗いたが、人の気配はない。さい銭箱を覗くと、金は一枚も入っていない。その代わり、箱の脇にも白い衣が落ちていて、その上を黒く太い芋虫が、ぬらぬらと這っていた。
反射的に視線を逸らした。喉の奥が、ひゅっと縮んだ。
そのとき、外から声がした。
「早く来い!」
振り向くと、連れの一人が寺の横の小さな家の前で立ち尽くしている。顔が引きつり、唇だけが動いていた。
「やばい、まじでやばい」
玄関は開いていた。
引き寄せられるように中へ入った瞬間、吐き気がこみ上げた。
腐敗した甘さ、焦げた油の匂い、湿った布の生臭さ。それらが混ざり合い、どれにも分類できない臭気になって鼻腔を塞ぐ。床には新聞紙、空の酒瓶、弁当の残骸、破れた肌着、欠けた食器。家具は倒れ、部屋そのものがゴミの層になっていた。
玄関脇の壁に、カレンダーが掛かっていた。
昭和五十二年。
紙は色あせ、めくり跡もない。日付の位置だけが、妙に整って見えた。
奥の部屋へ近づくにつれ、匂いが濃くなる。
暗い部屋の中央に、大釜がひっくり返っていた。中からこぼれた黒褐色の汁が床に広がり、乾いた部分と湿った部分がまだらに残っている。押入れは空で、天井板が破れて垂れ下がっていた。壊れた家電、傾いた棚。呼吸を意識しないと、息が止まりそうだった。
そして、壁一面に、それは貼りついていた。
おむつ。
昼の光を吸い込むほど、壁いっぱいに敷き詰められたおむつ。黄ばみ、黒ずみ、乾ききったものと、まだ重さを残しているものが混在している。そこから立ち上る臭気が、頭蓋の奥を直接揺さぶった。声を出したつもりが、耳に届くまでに遅れがあった。
他の連中は、恐怖より好奇心が勝ったらしい。
荒れた部屋を物色し、机の下から一冊の辞書を引きずり出した。漢字辞書。異様なほど丁寧に置かれている。その前にはペンが添えられていた。
ページをめくると、端に走り書きがある。線は震え、意味を結ばない。
最後のページだけ、かろうじて読めた。
『○○○さまのおこえがきこえてくるようです』
背中を氷水でなぞられた感覚が走った。
その直後、別の一人が押入れの下段に何かを見つけた。
寝袋だった。
「重いな」
引きずり出そうとする動きが、異様にゆっくりに見えた。
脳が、言葉より先に叫んでいた。
「やめろ! 死体だ、それ! これ遺書だ!」
自分の声に、自分で驚いた。
引っ張っていた手が離れ、寝袋は半分だけ外に出たまま止まった。
押入れの上を見上げた。
天井に穴が開いている。黒い闇が、奥へ続いている。
唇が勝手に動いた。
「そっから……誰か来る……」
次の瞬間、全員が我に返ったように走り出していた。
寺を飛び出し、木々をかき分け、転びながら山を下った。
しばらくして立ち止まっても、手足の震えは止まらなかった。
一人が「本当に死体か、確認しようぜ」と言ったが、誰も動かなかった。
それ以来、その寺の話は、自然と口に出なくなった。
何年も経った。
去年、中学時代の仲間と酒を飲んでいると、ふとその話が出た。
勢いで、また山へ登った。
「あの時、変な道通ったよな」
笑いながら進むと、偶然、あの開けた場所に出た。
寺は、まだそこにあった。
ただし様子が違う。周囲は黒い鉄柵で囲まれ、有刺鉄線が巻かれている。
白い看板に、赤い字。
信者以外立入禁止
それを見た瞬間、胸の奥で何かが冷たく固まった。
柵の内側に、あの日の匂いと闇が、今も閉じ込められている。
そしてそれは、閉じ込められているのではなく、待っているのではないか。
そう思ってしまったこと自体が、今でも一番、気持ち悪い。
[出典:2006/07/23(日) 01:56:30 ID:P8Akb4pb0?]