寺に、霊感や祓いの力が本当にあるのか。
そんな話は、酒の席でたまに出る。誰かが知ったふうな顔で、坊主なんて葬式屋と変わらないと言う。別の誰かが、いや、古い寺にはそれなりのものがあると言う。
俺はどちらにも相づちを打つだけにしている。
一度だけ、その手の話を、幼馴染から直接聞いたことがある。
そいつは今、地元の寺で住職をしている。俺たちの町は、山と田んぼに囲まれた田舎で、寺といえばそこしかないというくらい、そいつの家は大きかった。山門をくぐると、よく手入れされた庭があり、その奥に本堂と墓地がある。由緒ある名刹というより、土地に根を張って離れなくなった古い家、という感じの寺だった。
何年か前、盆に帰省したとき、俺たちは久しぶりに飲んだ。
話が少し途切れたころ、俺が冗談半分で訊いた。
「お前、やっぱり見えたりするのか」
友人は湯飲みを置いて、しばらく黙っていた。笑ってごまかすと思ったが、そうしなかった。
「見えるというより、分かることがある」
その言い方が妙に乾いていて、俺は茶化すのをやめた。
友人が最初に変なものを見たのは、まだ小学生のころだったという。
祖父に連れられて、墓地の掃除をしていた日だった。祖父は寺では大和尚と呼ばれていた人で、背筋の伸びた、痩せた老人だった。真夏でも袈裟を乱さず、墓石の間をゆっくり歩く。怒鳴ることはなかったが、そばにいるだけで背中を丸めてはいけない気がしたらしい。
墓前の供え物を狙って、カラスが集まってくることは珍しくなかった。
その日も、黒い羽音がいくつも降ってきた。
友人は箒を持ったまま、墓石の上に止まった一羽を見た。最初は、ただ大きいカラスだと思った。
でも、目が違った。
鳥の目ではなかった。
黒い玉の奥に、小さく白目があった。人間が横目でこちらを見るときの、あの湿った白さだった。
友人が立ち止まると、別の墓石にいたもう一羽も顔を向けた。その目にも白目があった。
二羽は鳴かなかった。ただ、こちらを見ていた。
「ほう」
背後で大和尚が言った。
「見えるか」
友人は答えられなかった。
大和尚は懐から数珠を出し、短い経を唱えた。声は大きくなかった。けれど、蝉の鳴き声が一瞬だけ遠くなったという。
人の目をしたカラスは、墨を水に落としたみたいに輪郭をにじませた。羽も嘴もほどけて、墓石の上からすうっと消えた。
「今の、何」
友人が聞くと、大和尚は箒を拾いながら言った。
「魂ではない。ただの悪い気じゃ」
そのあと、大和尚はこう続けた。
「お前の母親を、拝み屋の家から嫁にもらったのは正解だったな。お前の父親は、何も見えん」
友人はそのとき、祖母の話をしているのだと思ったらしい。
違った。
あとで知ったことだが、友人の母親は、このあたりの寺とは別の、古い民間信仰を受け継ぐ家の娘だった。病人の枕元に呼ばれたり、屋敷の井戸を見たり、そういうことをしていた家だという。友人の父親が、かなり熱心に頼み込んで嫁に迎えたそうだ。
「寺の血より、そっちの血なんだろうな」
友人はそう言った。
大人になり、寺を継いでから、友人には分かるようになったことがある。
葬式で引導を渡したあと、その人の気配がまだこの世に残っているかどうか。
多くは、四十九日までは残らない。三十日ほどで、ふっと薄くなるらしい。蝋燭の火が消えるのに似ている、と友人は言った。
ただ、自分で命を絶った人や、強い怨みを残した人は違う。
濃い。
薄くならない。
部屋の隅、枕元、玄関の陰、そういう場所に沈むように残っている。そういうときは、読経の時間を長くする。手順も変える。檀家には言わない。ただ、そうする。
「霊を祓うのか」
俺が訊くと、友人は首を横に振った。
「祓うなんて簡単に言わないほうがいい。俺に分かるのは、そこに何かが残っているということだけだ。誰なのか、何なのかまでは分からない」
それから、少し声を落として言った。
「それに、何でも祓えばいいわけじゃない」
この町では、通夜の前に遺体を寺へ運ぶことが多い。
遺体は北枕に寝かされる。枕元には小さな黒い屏風を立てる。古くからの決まりで、友人も子どものころは意味を知らずに見ていた。
「魂が抜けたあとの身体は、空き家みたいなものなんだ」
友人は言った。
「戸を開けたままにしておくと、何かが入る」
俺は冗談だと思いたかったが、友人は笑わなかった。
ある晩のことだ。
台風が近づいていて、夜中から風が強かった。寺のガラス戸が鳴り、本堂の柱まで低く唸っていた。
その日は、町の老人の通夜を翌日に控えていた。遺体は寺の一室に安置され、枕元にはいつもの黒い屏風が立てられていた。
友人は夜半、廊下を見回りに出た。
安置してある部屋の前を通ったとき、どういうわけか足が止まった。中で物音がしたわけではない。ただ、畳の上に水をこぼしたような冷たさが、襖の隙間から流れてきたという。
襖を開けると、屏風が倒れていた。
風が入ったのだろうと思った。部屋の窓は閉まっていたが、古い建物だから隙間風くらいはある。
そう考えながら遺体に近づき、友人は息を止めた。
白布の下で、死者の目が開いていた。
半開きではない。
まぶたを無理に押し上げたように、かっと見開いていた。黒目は天井ではなく、屏風が倒れている畳のほうを向いていた。
友人はしばらく動けなかった。
死後硬直だとか、筋肉の弛緩だとか、そういう言葉は頭に浮かばなかったらしい。ただ、見てはいけないものを見ているという感覚だけがあった。
やがて友人は屏風を起こし、枕元に立てた。
その瞬間、部屋の空気が重くなった。
開いていたはずの窓を、外から手で押さえられたような圧だったという。
友人はその場に座り、経を唱えた。何分だったのか、一時間だったのか、本人にも分からない。声が枯れてから、ようやく白布の下の目が閉じた。
それで終わった。
そう思いたいところだが、友人はそこで言葉を切った。
俺が続きを促すと、友人は湯飲みに残っていた酒を飲み干した。
「朝になってから気づいたんだ」
「何に」
「屏風の向きが逆だった」
屏風には、表と裏があった。
外から何かが入らないように立てるなら、当然、表を遺体のほうへ向ける。そう教わっていたし、友人もそうしてきた。
だがその朝、屏風は裏を遺体へ向けて立っていた。
「自分で間違えたんじゃないのか」
俺が言うと、友人はうなずいた。
「そう思うことにした」
その夜からしばらく、友人は屏風を立てるたびに、裏表を何度も確認するようになった。
ただ、一度だけ大和尚に聞いたことがあったらしい。
屏風を逆に立てたらどうなるのか、と。
大和尚は、いつものように箒で墓地の落ち葉を掃きながら、こう答えたという。
「逆に立てると、入らんようにするんじゃない」
「じゃあ、何のために立てるの」
大和尚は掃く手を止めなかった。
「見んようにするためじゃ」
誰が、と友人は聞けなかった。
俺たちはそこでしばらく黙った。
店の中では、他の客が笑っていた。テレビでは野球中継が流れていた。そんな普通の音の中で、黒い屏風の話だけが、やけにはっきり残った。
帰り道、友人は「気にするな」と言った。
「こういう話は、知ったからどうなるものでもない」
そう言われると、余計に気になる。
「俺にも何か憑いてるのか」
酔った勢いで訊くと、友人は少しだけ俺を見た。
すぐに目をそらした。
「大抵の人間には、何かしらついてる。気にしたらきりがない」
「俺にもいるんだな」
「均衡が取れてるなら、触らないほうがいい」
友人はそれ以上、何も言わなかった。
俺はその言葉が嫌だった。
帰省を終えて自分の部屋に戻ってからも、あの屏風の話が頭を離れなかった。
黒い、小さな屏風。
死者の枕元に置かれるもの。
倒れると、空き家になった身体へ何かが入る。
逆に立てると、見ないためのものになる。
俺の部屋には、そんなものはない。屏風どころか仏壇もない。安アパートの一室で、寝る場所と机と本棚があるだけだ。
なのにその夜、部屋の電気を消して布団に入ると、妙に背中が落ち着かなかった。
後ろに何かがいる、という感覚ではない。
後ろに何かを立てられている、という感覚だった。
薄い板のようなものが、俺と部屋の隅との間にある。
見えないのに、あると分かる。
寝返りを打てば確認できる。そう思ったが、体が動かなかった。怖いというより、動かしてはいけない気がした。
翌朝、何事もなかった。
ただ、カーテンの隙間から入った朝の光が、壁に細い影を作っていた。最初は窓枠の影だと思った。
でも、影は窓の形ではなかった。
三つ折りの屏風みたいに、ぎざぎざと折れていた。
昼には消えた。
それから何度か、同じ影を見ている。
夜ではない。朝だけだ。天気のいい朝、カーテンを開ける前に、壁の端に黒い折れ目が立っている。
一度、友人に電話しようとした。
でも、やめた。
聞いてしまえば、何かが決まってしまう気がした。
それに、友人が最後に言った言葉が残っている。
「均衡が取れてるなら、触らないほうがいい」
最近、少し慣れてきた。
朝、壁に黒い折れ目が出ていると、俺はなるべく見ないようにして起きる。歯を磨き、コーヒーを淹れ、仕事へ行く。生活に支障はない。
ただ、ひとつだけ困っている。
あの影が、だんだん俺の背中側へ移ってきている。
今朝は、洗面所の鏡に映っていた。
俺の後ろに、黒い屏風が立っていた。
向きは、分からなかった。
[出典:690 :本当にあった怖い名無し:2012/09/02(日) 17:34:06.43 ID:FZTpamSJ0]