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黒い屏風 rw+5,293-0611

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寺に、霊感や祓いの力が本当にあるのか。

そんな話は、酒の席でたまに出る。誰かが知ったふうな顔で、坊主なんて葬式屋と変わらないと言う。別の誰かが、いや、古い寺にはそれなりのものがあると言う。

俺はどちらにも相づちを打つだけにしている。

一度だけ、その手の話を、幼馴染から直接聞いたことがある。

そいつは今、地元の寺で住職をしている。俺たちの町は、山と田んぼに囲まれた田舎で、寺といえばそこしかないというくらい、そいつの家は大きかった。山門をくぐると、よく手入れされた庭があり、その奥に本堂と墓地がある。由緒ある名刹というより、土地に根を張って離れなくなった古い家、という感じの寺だった。

何年か前、盆に帰省したとき、俺たちは久しぶりに飲んだ。

話が少し途切れたころ、俺が冗談半分で訊いた。

「お前、やっぱり見えたりするのか」

友人は湯飲みを置いて、しばらく黙っていた。笑ってごまかすと思ったが、そうしなかった。

「見えるというより、分かることがある」

その言い方が妙に乾いていて、俺は茶化すのをやめた。

友人が最初に変なものを見たのは、まだ小学生のころだったという。

祖父に連れられて、墓地の掃除をしていた日だった。祖父は寺では大和尚と呼ばれていた人で、背筋の伸びた、痩せた老人だった。真夏でも袈裟を乱さず、墓石の間をゆっくり歩く。怒鳴ることはなかったが、そばにいるだけで背中を丸めてはいけない気がしたらしい。

墓前の供え物を狙って、カラスが集まってくることは珍しくなかった。

その日も、黒い羽音がいくつも降ってきた。

友人は箒を持ったまま、墓石の上に止まった一羽を見た。最初は、ただ大きいカラスだと思った。

でも、目が違った。

鳥の目ではなかった。

黒い玉の奥に、小さく白目があった。人間が横目でこちらを見るときの、あの湿った白さだった。

友人が立ち止まると、別の墓石にいたもう一羽も顔を向けた。その目にも白目があった。

二羽は鳴かなかった。ただ、こちらを見ていた。

「ほう」

背後で大和尚が言った。

「見えるか」

友人は答えられなかった。

大和尚は懐から数珠を出し、短い経を唱えた。声は大きくなかった。けれど、蝉の鳴き声が一瞬だけ遠くなったという。

人の目をしたカラスは、墨を水に落としたみたいに輪郭をにじませた。羽も嘴もほどけて、墓石の上からすうっと消えた。

「今の、何」

友人が聞くと、大和尚は箒を拾いながら言った。

「魂ではない。ただの悪い気じゃ」

そのあと、大和尚はこう続けた。

「お前の母親を、拝み屋の家から嫁にもらったのは正解だったな。お前の父親は、何も見えん」

友人はそのとき、祖母の話をしているのだと思ったらしい。

違った。

あとで知ったことだが、友人の母親は、このあたりの寺とは別の、古い民間信仰を受け継ぐ家の娘だった。病人の枕元に呼ばれたり、屋敷の井戸を見たり、そういうことをしていた家だという。友人の父親が、かなり熱心に頼み込んで嫁に迎えたそうだ。

「寺の血より、そっちの血なんだろうな」

友人はそう言った。

大人になり、寺を継いでから、友人には分かるようになったことがある。

葬式で引導を渡したあと、その人の気配がまだこの世に残っているかどうか。

多くは、四十九日までは残らない。三十日ほどで、ふっと薄くなるらしい。蝋燭の火が消えるのに似ている、と友人は言った。

ただ、自分で命を絶った人や、強い怨みを残した人は違う。

濃い。

薄くならない。

部屋の隅、枕元、玄関の陰、そういう場所に沈むように残っている。そういうときは、読経の時間を長くする。手順も変える。檀家には言わない。ただ、そうする。

「霊を祓うのか」

俺が訊くと、友人は首を横に振った。

「祓うなんて簡単に言わないほうがいい。俺に分かるのは、そこに何かが残っているということだけだ。誰なのか、何なのかまでは分からない」

それから、少し声を落として言った。

「それに、何でも祓えばいいわけじゃない」

この町では、通夜の前に遺体を寺へ運ぶことが多い。

遺体は北枕に寝かされる。枕元には小さな黒い屏風を立てる。古くからの決まりで、友人も子どものころは意味を知らずに見ていた。

「魂が抜けたあとの身体は、空き家みたいなものなんだ」

友人は言った。

「戸を開けたままにしておくと、何かが入る」

俺は冗談だと思いたかったが、友人は笑わなかった。

ある晩のことだ。

台風が近づいていて、夜中から風が強かった。寺のガラス戸が鳴り、本堂の柱まで低く唸っていた。

その日は、町の老人の通夜を翌日に控えていた。遺体は寺の一室に安置され、枕元にはいつもの黒い屏風が立てられていた。

友人は夜半、廊下を見回りに出た。

安置してある部屋の前を通ったとき、どういうわけか足が止まった。中で物音がしたわけではない。ただ、畳の上に水をこぼしたような冷たさが、襖の隙間から流れてきたという。

襖を開けると、屏風が倒れていた。

風が入ったのだろうと思った。部屋の窓は閉まっていたが、古い建物だから隙間風くらいはある。

そう考えながら遺体に近づき、友人は息を止めた。

白布の下で、死者の目が開いていた。

半開きではない。

まぶたを無理に押し上げたように、かっと見開いていた。黒目は天井ではなく、屏風が倒れている畳のほうを向いていた。

友人はしばらく動けなかった。

死後硬直だとか、筋肉の弛緩だとか、そういう言葉は頭に浮かばなかったらしい。ただ、見てはいけないものを見ているという感覚だけがあった。

やがて友人は屏風を起こし、枕元に立てた。

その瞬間、部屋の空気が重くなった。

開いていたはずの窓を、外から手で押さえられたような圧だったという。

友人はその場に座り、経を唱えた。何分だったのか、一時間だったのか、本人にも分からない。声が枯れてから、ようやく白布の下の目が閉じた。

それで終わった。

そう思いたいところだが、友人はそこで言葉を切った。

俺が続きを促すと、友人は湯飲みに残っていた酒を飲み干した。

「朝になってから気づいたんだ」

「何に」

「屏風の向きが逆だった」

屏風には、表と裏があった。

外から何かが入らないように立てるなら、当然、表を遺体のほうへ向ける。そう教わっていたし、友人もそうしてきた。

だがその朝、屏風は裏を遺体へ向けて立っていた。

「自分で間違えたんじゃないのか」

俺が言うと、友人はうなずいた。

「そう思うことにした」

その夜からしばらく、友人は屏風を立てるたびに、裏表を何度も確認するようになった。

ただ、一度だけ大和尚に聞いたことがあったらしい。

屏風を逆に立てたらどうなるのか、と。

大和尚は、いつものように箒で墓地の落ち葉を掃きながら、こう答えたという。

「逆に立てると、入らんようにするんじゃない」

「じゃあ、何のために立てるの」

大和尚は掃く手を止めなかった。

「見んようにするためじゃ」

誰が、と友人は聞けなかった。

俺たちはそこでしばらく黙った。

店の中では、他の客が笑っていた。テレビでは野球中継が流れていた。そんな普通の音の中で、黒い屏風の話だけが、やけにはっきり残った。

帰り道、友人は「気にするな」と言った。

「こういう話は、知ったからどうなるものでもない」

そう言われると、余計に気になる。

「俺にも何か憑いてるのか」

酔った勢いで訊くと、友人は少しだけ俺を見た。

すぐに目をそらした。

「大抵の人間には、何かしらついてる。気にしたらきりがない」

「俺にもいるんだな」

「均衡が取れてるなら、触らないほうがいい」

友人はそれ以上、何も言わなかった。

俺はその言葉が嫌だった。

帰省を終えて自分の部屋に戻ってからも、あの屏風の話が頭を離れなかった。

黒い、小さな屏風。

死者の枕元に置かれるもの。

倒れると、空き家になった身体へ何かが入る。

逆に立てると、見ないためのものになる。

俺の部屋には、そんなものはない。屏風どころか仏壇もない。安アパートの一室で、寝る場所と机と本棚があるだけだ。

なのにその夜、部屋の電気を消して布団に入ると、妙に背中が落ち着かなかった。

後ろに何かがいる、という感覚ではない。

後ろに何かを立てられている、という感覚だった。

薄い板のようなものが、俺と部屋の隅との間にある。

見えないのに、あると分かる。

寝返りを打てば確認できる。そう思ったが、体が動かなかった。怖いというより、動かしてはいけない気がした。

翌朝、何事もなかった。

ただ、カーテンの隙間から入った朝の光が、壁に細い影を作っていた。最初は窓枠の影だと思った。

でも、影は窓の形ではなかった。

三つ折りの屏風みたいに、ぎざぎざと折れていた。

昼には消えた。

それから何度か、同じ影を見ている。

夜ではない。朝だけだ。天気のいい朝、カーテンを開ける前に、壁の端に黒い折れ目が立っている。

一度、友人に電話しようとした。

でも、やめた。

聞いてしまえば、何かが決まってしまう気がした。

それに、友人が最後に言った言葉が残っている。

「均衡が取れてるなら、触らないほうがいい」

最近、少し慣れてきた。

朝、壁に黒い折れ目が出ていると、俺はなるべく見ないようにして起きる。歯を磨き、コーヒーを淹れ、仕事へ行く。生活に支障はない。

ただ、ひとつだけ困っている。

あの影が、だんだん俺の背中側へ移ってきている。

今朝は、洗面所の鏡に映っていた。

俺の後ろに、黒い屏風が立っていた。

向きは、分からなかった。

[出典:690 :本当にあった怖い名無し:2012/09/02(日) 17:34:06.43 ID:FZTpamSJ0]

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