十年ほど前のことだ。
あの頃、俺はまだ学生で、日々の暮らしをアルバイトで繋いでいた。
居酒屋の薄暗いカウンター、その向こうで笑う二つ上の女――由紀子。
当時はまだ、今のような擦れた下衆女ではなかったと、そう思いたかった。
いや、違うな。あの頃からすでに、どこか底の方で腐りかけていたんだろう。
気がつけば、俺たちは付き合っていた。
地方から出てきて独り暮らしをしていた俺の部屋に、バイト終わりの夜、週に一度か二度はやってきた。
缶ビールのプルタブを引く音、煙草の灰が弾ける匂い、そして何でもない会話が夜更けまで続いた。
由紀子もまた地方出身で、妹と二人で暮らしていると言っていた。
やがて、あれは唐突に起きた。
妊娠。
産めるはずもない命だった。二人で話し合って堕ろした。
その日を境に、会話の間に沈殿した沈黙が腐臭を放ち始め、九ヶ月の関係は終わった。
罪悪感から逃げるように、俺はバイトを辞め、部屋を変え、携帯も番号も変えた。
由紀子の痕跡は、紙屑のように捨て去ったつもりだった。
五年か六年経った夏の日。
新しいアパートのドアを叩く音がした。
開けると、見知らぬ女が立っていた。由紀子の妹だと名乗った。
あの時の背筋のざわつきは、今も皮膚に残っている。
どうやって俺の居場所を突き止めたのかは分からない。バイト先の同僚とも完全に縁を切っていたのに。
「姉が死にました」
そう告げる声は、感情の水分を失っていた。
死因は聞かなかった。聞く気にもなれなかった。
妹は俺に、墓参りに行ってくれと住所の書かれたメモを渡した。
分かったと答え、その足でゴミ箱に捨てた。
彼女にはもう二度と来るなと、遠回しに告げた。
念のため、また引っ越した。
その頃には沙保里という会社の同僚と付き合っていた。
営業で帰宅はいつも夜十時を過ぎる。
休日前、沙保里は時々夕飯を作りに来て、そのまま泊まった。
由紀子の妹が現れてから一年ほど経った夏の夜、疲れ切って帰宅すると、沙保里がテーブルで待っていた。
風呂上がりに眼鏡を外し、ビールを口にしながら彼女の顔を見た瞬間、視界がにじんだ。
二重に見える……ただの疲れ目かと思ったが違った。
沙保里とほぼ同じ背格好の、別の女の輪郭が、二〇センチ、三〇センチの距離で前後に揺れている。
眼鏡を掛け直しても消えない。
しかも、その顔は沙保里ではない。まったく知らない女。
三十秒ほどで、幻は消えた。
だが半年後、あれは再び現れた。
深夜二時頃、沙保里が俺を揺すって起こした。
眠い目で見ると、彼女の頭の右側が不自然に膨らんでいる。
そこから、あの女が這い出てきた。
三〇センチの距離で、にやにやと笑い、ゆっくりと沙保里の頭に噛みついた。
実際に肉が裂けることはなかったが、咀嚼のたびに沙保里は眉をしかめ、「すごく頭が痛い」と呻いた。
女は最後に舌を突き出し、笑顔のまま沙保里の頭に沈み消えた。
その瞬間、理解した。
あれは由紀子の妹だった。
生き霊――そうとしか思えなかった。
それ以来、沙保里は酷い頭痛持ちになり、俺の前に女は頻繁に現れた。
風呂上がり、トイレから出てきたとき、道を歩いているとき、そして接吻しようと顔を近づけたとき――彼女の顔が妹の顔に変わった。
俺は耐えきれず沙保里と別れた。
それでも女は現れた。
三日に一度、あるいは四日に一度。
毎日ではない分、いつ出てくるのか分からない恐怖が日常を支配した。
鏡が怖く、窓のカーテンを閉めるのが怖く、電気を消して眠ることもできなかった。
電気代は一万円近くになった。
女を探そうとした。
だが名前も連絡先も分からない。
昔のバイト先を訪ねても、誰一人由紀子のことを知る者はいなかった。
霊能者にも頼ったが、あれは俺以上の下衆だった。
一万円から三万円、やがて十万、三十万と金を要求する。
効果は、なかった。
最後に病院へ行った。
エビリファイ、次にジプレキサ。
薬のせいか、女の姿は薄れた。
仕事を辞め、親元へ戻ったのも良かったのかもしれない。
親には、仕事のストレスで鬱になったと説明した。
今はコンビニでアルバイトをしている。
三十を過ぎ、病気持ち。もうまともな就職は無理だろう。
それでも、あの女を見なくなったことだけは救いだ。
……いや、今、これを書いている部屋の隅で、笑っている気配がする。
[出典:894 :本当にあった怖い名無し :2010/05/04(火) 10:24:53 ID:LqXpykQt0]