あれから十年経つのに、部屋の空気にはまだ、誰かが息を潜めているような沈みがある。
最初におかしくなったのは、由紀子が消えて五年後だった。俺はもう別の街に移り、別の女と暮らしはじめ、前の生活とは何ひとつ繋がっていないはずだった。名前も、部屋も、番号も、全部捨てた。過去は一度剥がしたら戻らないステッカーみたいに、二度と貼りつかないと思っていた。
なのに、あいつらだけは違った。
夏の夕方、部屋のドアが三回叩かれた。ノックの癖が妙に間延びしていて、最初は新聞勧誘だと思った。開けると、見たことのない顔の女が立っていた。目の奥に乾いた光があり、肌は汗を吸わない紙のように薄かった。
「姉が死にました」
声はやけに小さかった。地響きのように、部屋の奥に沈んでいく感じがした。
女は「由紀子の妹」と名乗った。俺は扉の枠に手を置いたまま固まっていたが、彼女は平然と一枚のメモを差し出し、墓の場所だけ告げて帰った。
ドアが閉じられたあと、遅れて心臓が跳ねた。メモはすぐ捨てた。彼女も、もう二度と来るなと告げた。理解してくれるとは思わなかったが、あれは俺のためじゃなく、むしろ彼女自身のためにそうした。
その一年後だ。
沙保里が、部屋のテーブルにビールを置いて俺を待っていた。照明の反射が、彼女の表情をいつもより柔らかく見せた。疲れが一気にほどける気がした。だが次の瞬間、視界が二重にぶれた。沙保里の後ろに、同じ肩幅の、別の女が揺れていた。
目を凝らすほど、輪郭だけ鮮明になっていく。その顔は沙保里ではなかった。知らない女だった。知らないはずなのに、胸の内側がきしむように拒絶した。
三十秒ほどで消えた。俺は疲れのせいだと決めつけた。
半年後、その甘えは粉々に砕かれた。
深夜二時、沙保里が俺を揺すって起こした。額に汗が滲み、息が荒い。右側のこめかみが不自然に盛り上がっている。その膨らみの端が、裂けた。
そこから這い出てきたのは、あの女だった。目だけが湿ったように光っていた。にやにやと笑いながら、沙保里の側頭部に歯を立てた。肉は裂けなかった。だが噛まれるたびに、沙保里の顔が痛みに歪む。
女は最後に舌を突き出し、ゆっくりと沙保里の頭に沈んでいった。
俺は声を出せなかった。
気づいた。あれは由紀子の妹だ。五年前、死んだと告げに来た女だ。いや、あれは本当に本人だったのか。あの日のノックの間延びしたリズムと、沙保里の頭から出てきた時の動きが、妙に一致していた。
それから、女はどんどん近くなった。
洗面所の鏡を覗いた時、俺の後ろに立っていた。
夜道を歩くと、街灯に照らされて形が濃くなった。
沙保里とキスをしようとすると、顔が滑るように妹の顔へ変わった。
笑う瞬間だけ、頬だけ、目だけ、順番を変えながら。
沙保里とは別れた。それで終わると思った。
終わらなかった。
女の出現は不規則になり、間隔が空くほど恐怖が尖った。コンビニでバイトする途中、冷蔵ケースのガラスに映ったり、家に帰ってドアを閉めた瞬間、足のすぐそばに立っていたり。気づくといない。
姿は薄れていったが、気配はむしろ濃くなった。見えない時のほうが、背中が冷えた。
病院にも行った。薬も飲んだ。働ける場所も減らし、実家に戻った。それでようやく、女の姿は出なくなった。
出なくなった、だけだ。
気配は、俺の中のどこかに残されたままだった。
今日、これを書いている。書けば終わる気がした。吐き出すように、全部。
だが今、部屋の隅がわずかに暗い。そこだけ空気が沈んでいる。黒よりも黒い影が、壁から浮いて見える。
あれは、由紀子でも妹でもない。
俺が捨てたはずのものが、形を持ちはじめている。
――またノックの音がした。
[出典:894 :本当にあった怖い名無し :2010/05/04(火) 10:24:53 ID:LqXpykQt0]