夜勤明けで、旧犬鳴トンネルの前に立ったのは、偶然だったと最初は思っていた。
道路管理課に配属されて三年目。老朽化した林道とトンネルの封鎖状況を確認する、ありふれた業務の一環だ。地図にもほとんど載らない廃道で、携帯の電波は入らず、午前中なのに空気は夕方のように冷えていた。
トンネルは、思っていたよりも低く、口を閉ざしていた。コンクリートの縁に苔が張りつき、内側は昼でも光が届かない。中を覗いた瞬間、湿った臭気が喉の奥に絡みついた。カビと土と、何か焦げたような匂いが混じっている。
封鎖フェンスに近づいたとき、ガードレールの根元に黒い染みが残っているのが目に入った。油汚れにしては不自然で、雨で流れた形跡もない。触れると指先がざらつき、薄く煤がついた。
そのとき、背後で砂利を踏む音がした。
振り返ったが、誰もいない。風で枝が落ちただけだろうと自分に言い聞かせ、点検表にチェックを入れた。業務はそれだけだった。異常なし。立入禁止、維持。
その日の夜、妙な夢を見た。
車の後部座席に誰かが座っている。ルームミラー越しに目が合うが、顔はよく見えない。信号で止まると、その気配だけが残り、次の瞬間、座席は空になる。目が覚めたとき、耳元で誰かが囁いた気がした。
「……何もしないから」
翌日、同僚に犬鳴の話を振られた。冗談半分で、あそこは出るらしいな、と。昭和の事件のことも口にした。焼かれた青年の話だ。
私は聞き流しながら、なぜか違和感を覚えた。話の中で語られる恐怖と、昨日自分が感じたものが、微妙に噛み合わない。あの場所には、怨霊だとか幽霊だとか、そういう分かりやすいものとは別の、もっと鈍い何かが沈んでいる気がした。
数日後、追加の確認作業で再び峠を訪れた。今度は単独だ。トンネル前に車を停めた瞬間、エンジン音がやけに大きく反響した。まるで内部が空洞ではなく、柔らかい何かで満たされているような響き方だった。
フェンスの内側を懐中電灯で照らす。光は途中で歪み、奥まで届かない。壁には無数の擦れ跡があり、人の手形のようにも見えた。錯覚だと分かっているのに、目を逸らせなかった。
そのとき、はっきりと声が聞こえた。
「もうよそう」
低く、近い声だった。反射的に後ずさりし、背中をフェンスにぶつけた。音はそこで途切れた。周囲は静まり返り、鳥の声すらない。
逃げるように車へ戻り、ドアを閉めた瞬間、後部座席が軋んだ。
誰かが、乗った。
ミラーを見る勇気はなかった。ただ、視界の端で、焼け焦げた布の匂いがした。皮膚が炭のように割れる感触が、なぜか自分の体に重なった。
信号もない山道なのに、なぜか車は減速し、止まった。ブレーキを踏んでいない。足が動かない。耳元で、同じ言葉が繰り返される。
「何もしないから出てこい」
その声は、優しくも、脅しでもなかった。ただ、事務的だった。過去に何度も口にされた、使い古された言葉のように。
次の瞬間、視界が白く飛び、気づくとトンネルの前に立っていた。車は消えている。昼間のはずなのに、空は暗く、冷気が肌を刺す。
ガードレールの黒い染みが、ゆっくりと広がっていく。その中から、人の形が浮かび上がった。焼けただれた顔で、こちらを見ている。助けを求めているのか、引きずり込もうとしているのか、判断できない。
背後で、複数の足音がした。若い声が笑い合い、誰かが叫ぶ。
「共犯だからな」
逃げ場はなかった。関わってしまった時点で、もう選択肢は残っていない。善意でも、仕事でも、ただ立ち寄っただけでも同じだった。
最後に聞こえたのは、最初に聞いたあの声だった。
「……何もしないから」
それが嘘だったかどうかを、確かめる者はいない。今も旧犬鳴トンネルは封鎖されているが、夜になるとフェンスの前で立ち止まる車があるという。後部座席に、誰かが乗っていることに気づいたまま。
[出典:犬鳴峠リンチ焼殺事件]