福岡県に古くから語り継がれる犬鳴峠の話を知っているだろうか。
あの一帯には、人が近づくことを拒むように口を閉ざした旧犬鳴トンネルがあり、かつてから幽霊だの怨霊だのと囁かれてきた。実際に地元の古老などは「日が暮れる前に近寄るな」と子どもに口を酸っぱくして言ったという。
その旧トンネルにまつわる怪談は数多いが、中でも昭和六十三年の冬に起こった出来事は、単なる噂や作り話ではない。これは裁判記録にも残る、実際にあった惨劇だ。だが事件として片づけられた以上に、人々の記憶にはどす黒い怨念を帯びた怪談として沈殿している。
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十二月七日の昼、田川郡方城町に住んでいた若い工員のUさん(二十歳)が、犬鳴峠で焼け焦げた遺体となって発見された。
Uさんは普段から親に孝行する素朴な青年だったそうで、仕事を終えて帰宅する途中にその災厄に巻き込まれた。
事の発端は、信号で停車していた車の中だった。窓を叩いて顔を覗き込んできたのは、田川地区で悪名を馳せた少年グループだったという。十六から十九歳の五人組。彼らはUさんに「女を送るのに車を貸せ」と要求した。もちろん断る。すると彼らの顔に浮かんだのは、獣じみた笑みだった。
殴打され、無理やり車外へ引きずり出され、拉致される。抵抗する力は次第に奪われ、体は傷だらけになった。
それでも隙を見て逃げ出し、血を流しながら必死に歩いた。家へ帰ろうとしていたのだろう。しかし通りすがりの車に助けを求めることはなかった。助けを求めれば救われたかもしれない。だが彼は黙って道を進み、再び追いつかれ、再び捕まってしまった。
その後の暴行はさらに激しさを増した。苅田港で水に沈められそうになり、フェンスにしがみついて「死にたくない」と全身で訴えた。仲間の一人はさすがに「もうやめよう」と声を漏らしたらしい。けれど主犯は仲間を脅すように言い放った。「俺たちは共犯だからな」――後戻りできないという呪文だった。
クランクやレンチで滅多打ちにされ、車のトランクに押し込められ、そして向かった先があの旧犬鳴トンネルだった。
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廃道にひっそりと口を開けるトンネル。昼なお薄暗く、冷気が肌を刺す。壁は濡れ、かび臭い空気が肺に沈み込む。そこにガソリンをぶちまけられ、恐怖の悲鳴がこだました。トンネルはまるで共鳴するかのようにその声を増幅し、闇の奥へと響かせたという。
「……やっぱり気味が悪い」
そう言って、少年たちは一瞬だけ立ちすくんだ。
その隙をついて、Uさんは走った。暗闇を抜け、雑木林へ逃げ込んだ。心臓は破裂しそうで、血は凍りつくように冷えていたはずだ。木の影に身をひそめる彼に、少年らは声をかけた。
「何もしないから出てこい。本当だ、もう帰してやる」
常識的に考えれば信じるはずがない。だが、彼はその言葉に縋って姿を現した。なぜかは分からない。疲労と出血で判断が鈍ったのか、それともトンネルの闇に囁かれた何かに導かれたのか。
再び捕らえられた彼の口には布切れが押し込まれ、石で頭を殴られた。血は飛び散り、ガードレールにまでこびりついたと聞く。
それでも命の炎は消えなかった。焼かれ、のたうちまわり、必死に助けを求めて走った。焼け焦げた体を引きずり、トンネルの入り口までたどり着いたが、そこで倒れ込んだ。
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その後のことは裁判記録に残っている。主犯格の少年は無期懲役。他の者も有罪。事件としてはそれで終わった。
だが、ここから先は人々の間で囁かれる怪談だ。
現場を訪れた者の証言によれば、ガードレールには長い間、焦げついた布や黒い染みが残っていたという。夜になると、トンネルの奥から「もうよそう」と囁く声がする、とも言われた。それはかつて制止しようとした少年の言葉だった。あるいは、燃えさかる炎の中で命乞いを続けたUさんの声かもしれない。
峠を越えるドライバーの中には、深夜にバックミラーに焼けただれた青年の姿を見た、と震えながら語る者もいる。彼は必ず後部座席に座っている。信号で止まった瞬間にふっと消える。
さらに不可解なのは、あの日現場にいた五人の少年のうち、数年後に事故死や不審な死を遂げた者がいるという噂だ。表立った報道はされなかったが、地元では「犬鳴の祟り」として囁かれている。
彼らの最後の台詞――「さっき人ば焼き殺した!」という狂った笑い声さえも、今ではトンネルに染みつき、夜風に混じって聞こえるという。
昭和の惨劇は確かに裁かれた。しかし犬鳴のトンネルにはまだ、焼け焦げた青年が助けを求めて彷徨っている。真夜中に通れば、闇の奥から「何もしないから出てこい」という声が響き、そして姿を現してしまえば二度と帰れないのだと。
[出典:犬鳴峠リンチ焼殺事件]