川崎は、生のトマトを食べない。
ピザの上に乗っているものは平気だし、ミネストローネも食う。缶詰のホールトマトを潰してパスタを作ることもある。ただ、サラダに入っている輪切りや、弁当に添えられたプチトマトだけは、箸でそっと端に寄せる。
その夜もそうだった。
山奥のキャンプ場で、俺たちは焚き火を囲んでいた。川崎が買ってきた惣菜の中に、透明なカップに入ったサラダがあった。レタスの上に、プチトマトが二つ転がっている。
川崎はそれを見た瞬間、煙草に火をつけた。
「お前、トマト好きか」
「普通に食うけど」
「生で?」
「まあ」
川崎はしばらく黙っていた。火の先が小さく赤くなり、夜の中で一度だけ震えた。
「あれ、たまに混じってるからな」
何が、と聞く前に、川崎はサラダのカップを焚き火から遠ざけた。
「俺の地元に、変な話があったんだよ。トマト畑に、背広を着た男が出るって話。顔はない。頭が真っ赤なトマトなんだ」

言い方だけ聞けば、ふざけた怪談だった。
けれど川崎は笑わなかった。
「子どものころは、ただの脅しだと思ってた。畑を荒らすなとか、勝手に取って食うなとか、そういう大人の作り話だろ。でもな、夏になると本当に出たんだよ。畑の奥で、しゃがんでる背広の男が」
風が吹いて、焚き火の煙がこちらへ流れてきた。
「近づくと、いなくなる。いや、いなくなるんじゃないな。丸まるんだ。膝を抱えて、首を下げて、地面にぺたんと座る。次に見たときには、ただのトマトになってる」
川崎はそこで一度、唇を舐めた。
「俺も一回だけ見た。中学のときだ。町の収穫イベントで、農園に連れていかれた。自分で取ったトマトをその場で食べるってやつ」
昼間の畑は明るく、人も多かったという。
受付でバケツを渡され、好きな実を取っていいと言われた。子どもたちは笑いながら畝の間に入り、大人たちは写真を撮っていた。川崎も、なるべく赤くて大きいものを探して歩いた。
そのとき、苗の下で何かが動いた。
最初は犬かと思ったらしい。
腰をかがめてのぞくと、小さな男がいた。子どもくらいの背丈で、黒い背広を着ていた。頭だけが、熟れすぎたトマトだった。茎も葉もない。顔もない。つやつやした赤い球が、細い首の上に乗っていた。
それは川崎に気づくと、慌てたように地面へ座った。
背中が丸くなり、肩が畳まれ、黒い背広が土の色に沈んだ。最後に赤い頭だけが残って、それもゆっくり葉の陰へ転がった。
そこには、大玉のトマトが一つあった。
「声が出なかった」
川崎は言った。
「俺が見てる前で、若い女の人がそれを取ったんだ。観光客っぽい人だった。うわ、きれい、って笑ってさ。服でちょっと拭いて、そのままかじった」
焚き火の中で、枝が折れた。
「うまいって言ってたよ。すごく甘いって。口の端に種がついてた。普通の種だったと思う。でも、なんか嫌だった。種が多すぎたんだ。笑うたびに、歯の間からぽろぽろ落ちるくらい」
女はそのあと、袋に何個かトマトを入れて帰っていった。
川崎は、しばらく畑から動けなかった。
「帰ってから親に話したら、怒られた。そんな馬鹿なこと言うなって。でも、その年から町では少しだけ噂になった。イベントで持って帰ったトマトを庭に植えた家が、翌年からやけに豊作になったとか。夜中に畑のほうで革靴の音がするとか」
川崎は煙草を踏み消した。
「それで?」
俺が聞くと、川崎は俺の顔を見なかった。
「それだけだよ。誰かが死んだとか、消えたとか、そういう話じゃない。ただ、増えるんだってさ」
「何が」
「トマトが」
川崎はサラダのカップを指さした。
「火を通せばいい。昔からそう言われてた。焼けば大丈夫だって。だから俺は、ソースもスープも平気なんだ。でも生はだめだ。あれはまだ、形を決めてない」
その言い方が妙に耳に残った。
形を決めていない。
焚き火が弱くなり、薪を足そうとして立ち上がったとき、俺はふと川崎の肩越しを見た。
木々の間に、誰かが立っているように見えた。

小さな背広姿だった。頭のあたりだけ、火の色を受けたように赤かった。
俺が瞬きをすると、もう何もなかった。
川崎には言わなかった。言えば、彼は本気で帰ると言い出したと思う。
その後、川崎とはあまり会っていない。
ただ、あの夜から、俺も生のトマトを見ると少しだけ気になるようになった。スーパーの棚に並んだトマトの中に、一つだけ妙に艶のあるものがある。冷蔵庫から出したばかりなのに、表面がぬるく光っているものがある。
そういうものは、切らずに鍋へ入れる。
笑われると思うから、誰にも言っていない。
先月、庭の隅にトマトの苗が生えてきた。植えた覚えはない。鳥が種でも落としたのだろうと思って、水だけやっていた。
今朝、最初の実が赤くなっていた。
小さく、丸く、つやつやしていた。
茎の下に、黒い布切れのようなものが一片、土に埋まっていた。
拾おうとして手を伸ばしたとき、その実がほんの少しだけ膨らんだ。
まるで、息を吸ったみたいに。
[出典:626 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.5][芽]:2024/12/21(土) 15:48:43.33ID:VMY226vO0]