十年近く前の出来事を、いまだ鮮明に語れる。
あれを思い出すたびに、風呂場の湿気の匂いが鼻の奥にまとわりつくのだ。
同じマンションに住む女の人に、唐突に拉致された。部屋へ引きずり込まれるようにして、風呂場へ押し込まれた。手足を縛られることはなかった。けれど扉の外で、何か大きな家具のようなものが積まれている音がして、逃げ道は完全に塞がれていた。「逃げたら殺す」そう囁かれた声は、不気味に淡々としていて、怒りも感情も感じられなかった。
閉じ込められているだけなら、助けはすぐ来るはずだと当初は考えた。ここは外界と切り離された空間ではなく、同じ建物の中なのだから。しかし、時間の感覚は次第に狂い、壁に囲まれた湿った空間の中で、いま自分が生きているのか、それとももう別の何かに取り込まれているのか、わからなくなっていった。眠ることもできず、湯気もぬるさもない浴槽に腰を沈め、ただ視界が揺らぐのをぼんやりと眺めていた。
そのときだった。
突然、目の前に当時の恋人が現れたのだ。
「大丈夫か?」
幻覚だと思った。恐怖で精神が壊れかけているのだと。けれど、その声も表情も、あまりにも現実的すぎた。混乱して「どうしてここにいるんですか」と問い返した。彼は落ち着いた声で「夢なんだよ、たぶん俺はいま夢を見てる」と言った。自分の部屋の風呂場だと思っていたら、目の前に私がいたと。
「ここは違う部屋。変な女の人に閉じ込められているんです」
そう説明すると、彼は眉を寄せて部屋の階数を尋ねてきた。しかし私自身、階数しか覚えておらず、番号まではわからなかった。
「二日経ってるよ」
そう言われたとき、心臓が一度止まったように感じた。私の感覚では、まだ一日の半分ほどしか過ぎていないと思っていたのだ。彼は「絶対助かるから」と言い残し、扉を開けてそのまま出ていった。その動作があまりに自然で、私は幻を見たと自分に言い聞かせるしかなかった。
実際に救出されたのは、三日目の夜だった。
病院に運ばれ、事情聴取を受けたとき、警察の人が唐突に彼の話を切り出した。彼が「同じマンションの部屋に閉じ込められている夢を見た」と告げたという。夢の中で番号まで確認したと話したため、半信半疑ながらも警官が聞き込み調査の際に気にかけていたところ、不自然に出入りの少ない部屋があり、そこから私が発見された。
私は自分が浴槽で見た幻覚を思い出し、彼に問いただした。彼は「大学で倒れたときに見た」と言った。私が行方不明になってからほとんど眠れず、注意も散漫になって階段から転げ落ちたらしい。そのとき意識を失い、気づいたら私のいる風呂場に立っていたのだと。会話も寸分違わず覚えており、最後は玄関から出て部屋番号を確認した瞬間に目が覚めたという。
「死にかけて幽体離脱でもしたのかな」
彼は笑っていた。その笑顔が私を救った。あの異様な事件は心の傷となるはずだったのに、不思議な夢の力で、恐怖は和らいでしまった。
……だが、彼はその数年後に亡くなった。結婚の約束もしたのに、その未来は叶わなかった。彼の三回忌を迎えるいま、あの出来事を思い出す。あのとき風呂場で現れた彼は、本当に夢の中の彼だったのだろうか。あるいはすでにそのときから、彼はどこか別の場所に片足を踏み入れていたのではないか。
水滴の落ちる音が、夜ごと耳にこだまする。あの風呂場の中で、彼の声がまだ私を呼んでいる気がしてならないのだ。
[出典:409 :あなたのうしろに名無しさんが……:02/11/29 23:26]