思い出せる最初の場面は、階段の下。
鈍い痛みと喉を裂く泣き声、目の前に仁王立ちする母親の顔。見開いた眼、泡を吹くような怒声。
……そうして、何故自分が殴られているのか、まるで分からなかった。
母は泣きながら叫んだ。「金を返せ」と。
聞けば、夜な夜なタンスから札束を盗んでいたらしい。私はそんな記憶を持っていない。
ただ暴力の記憶だけがくっきりと、皮膚に焼き付いていた。
意識が次に浮上した時、私は生徒会長になっていた。
意味が分からなかった。教室の隅で漫画を描いていた地味な性格だったはずなのに。
周囲に聞けば、全校生徒の心を掴むスピーチをしたという。拍手喝采だったと。
次の記憶では、学校に行けなくなっていた。
三ヶ月間、家から出ていなかったらしい。どうしてかなんて、訊かれても分からない。
そうしてまた目覚めると、私はスナックで働いていた。十七歳。
地球が酔う感覚を初めて知った。客の顔も、自分の姿も、蜃気楼のように揺れていた。
それから表彰台の上に立っていた。
派遣先のKDDI本社で契約件数三〇〇%を超えたらしく、金一封と拍手をもらった。
隣には知らない男。顔は整っていて、歌が上手かった。彼は恋人だったようだ。
コピーバンドのボーカルとして、人前で歌っていた私。自分じゃないみたいだった。
怖くなって、逃げた。
その次は浜松のマンション。五万円のワンルーム。
そこに現れた女の子が言った。「ご飯は?」
彼女をなぜ匿っていたのかは分からない。親から逃れてきたらしい。
偏食で、怠け者で、それでも楽しそうに笑っていた。
別れ際、彼女はこう言った。「暴力も、身体も、なかった時間をありがとう」
男は援交相手だったと教えられた。胃の底が冷たくなった。
東京、台東区の煌びやかなマンション。
鏡の中の私は痩せていて、目がぱっちりしていた。ホクロが消えていた。
整形したのか。知らないうちに。
どうやら吉原の店に勤めていた。九万円の家賃。息が詰まる。
次は銀座のクラブ。英語も中国語も話せると、ママに言われた。
そんな記憶、ない。三四キロの身体が、着物とドレスを袋に詰めて逃げ出した。
原宿、派手な格好のショップ店員。
写真を撮られるたび、内臓が凍る思いがした。私はこんな目立つ人間ではない。
また逃げた。
岐阜。
背の低い女性と手を繋ぎ、笑いながら暮らしていた。
彼女と養子縁組をしていた。名字が変わっていた。
料理を作りながら思った。この人を愛しているんだと。
名古屋に引っ越した。幸せだった。
その次の場面で、彼女は首を吊っていた。
泣きながら救急車を呼んだ。警察が来た。
遺書には「幸せの絶頂で死にたかった」と書いてあった。
理由なんて、分からない。
次に目覚めたとき、病院のベッドの上にいた。
久々に見る母は、鬼ではなかった。
年老いて、皺が深く、悲しそうだった。
言われた。解離性同一性障害――多重人格。
「あなたは主人格じゃないのよ」と。
それから地元で、母と暮らし始めた。
静かな日々。カーテンの向こうの光が、こんなにも眩しかったとは思わなかった。
一日四時間の仕事を始めた。笑って挨拶をし、部屋に帰って泣いた。
それが、今の私。
……でも、ひとつだけ言える。
私はこの体の「主」ではない。
誰かの一部。いつか、統合されて、消える役割。
もうすぐ夜になる。
冷蔵庫に食べかけのケーキが入っている。
私はそれを買っていない。
スマホの履歴に「性格 変わる 方法」と検索されていた。
主人格が目覚めたら、私はどこへ行くのだろう。
いま、あの人の精神年齢は何歳だろう。
それを考えると、ほんとうに、心が凍る。
治療薬はない。
カウンセリングも、私ではなく「本当の彼女」でなければ、意味がない。
だから、もし次に私が目覚めた時、
名前も、住む場所も、愛した人もすべて変わっていたなら……
どうか、誰か、教えて欲しい。
「あなたが誰かを生きたことは、たしかにあったんだ」と。
そうでなければ、あまりにも、私は……
空虚になってしまうから。
[出典:239 :本当にあった怖い名無し:2019/10/24(木) 12:21:16.95 ID:eaEPxIRf0.net]