あの日のことを思い返すたび、胸の奥で黒く重たいものが蠢く。
十四年前、多摩川の河原で見つけた穴に、なんの気なしに身を滑り込ませてしまったのがすべての始まりだった。
親戚の葬式の最中、同年代の者は一人もいなかった。退屈しのぎに外へ出て、湿った春の空気を胸いっぱいに吸い込みながら川べりを歩いた。空は重たく曇り、葬式帰りの喪服の裾に河原の砂利がまとわりついた。何を考えるでもなく、草の匂いを嗅ぎながらぼんやりと歩いていたとき、斜面の中腹に黒い影があるのに気づいた。
草に隠れるように口を開けていたのは、人一人が頭を下げれば入れるほどの穴だった。生き物の巣にしては大きすぎるし、廃坑にしては浅すぎる。しゃがみこんで覗き込むと、奇妙なことに奥が闇ではなく、淡い光を孕んでいた。土に吸い込まれるように暗くなるはずなのに、そこだけは違っていた。
胸の奥で、警鐘のような脈打つ感覚があった。しかし同時に、説明のつかない引力に惹かれるように身体が前に傾いた。靴の裏に砂利がきしみ、湿った土の匂いが強まる。しゃがんだ姿勢のまま数歩進むと、地面は斜め下に傾いていて、背中に草の葉がこすれた。
五メートルほど潜っただろうか。指先が粗末な木の板に触れた。思わず顔を近づけると、鼻を刺すような古びた木の匂いがした。暗闇の奥に続いていると思っていた穴は、唐突に板壁で塞がれていたのだ。
触れた瞬間、背筋に冷たいものが走った。木と木の合わせ目に隙間があり、そこから風が流れ込んでくる。風の向こうに光があり、声に出せない衝動に押されるようにして身体をねじ込み、縋るように這い出た。
次に目にしたのは、森だった。湿り気の強い土の匂い。目の前に現れたのは、崩れかけた社。その縁の下に自分は這い出てきていた。背後の板を振り返ったとき、心臓が潰れるかと思った。色褪せたお札が、数えきれないほど貼られていた。墨の文字は掠れ、ところどころ剥がれ落ちてはいたが、確かに封じるための呪いのように、無数に打ち付けられていた。
視界が歪んだ。混乱と恐怖で呼吸が乱れ、喉の奥から悲鳴が勝手に漏れた。脳裏に、触れてはならないものに触れたという確信が広がっていった。逃げなければならない。理屈を越えた強烈な本能に突き動かされ、よろめきながら山を駆け下りた。
運が良かったのか、ほどなく舗装道路に出た。足は勝手に交番へ向かっていて、泣き叫びながら駆け込んだとき、警官の顔が目の前にぼやけていた。
だが不可解だったのは、彼らの態度だった。支離滅裂に言葉を並べ立てたにもかかわらず、問い質すこともなく、ただ住所と名前を確認し、迎えを呼ぶ手配をてきぱきと進めた。まるでこの展開を知っていたかのように。落ち着きを取り戻した頃に「いったい何が起こったのか」と尋ねたが、彼らは一様に「わからん」とだけ言った。その言葉の裏に、言ってはならない何かを伏せている気配が漂っていた。
迎えに来た両親にも同じ説明がなされた。問い詰めてもはぐらかされ、結局答えは得られなかった。
その後、山を歩きに歩いて龍王峡へ出たことを覚えている。どれだけの時間を彷徨っていたのかは定かでない。ただ、社の場所を探しに戻る気力は、恐怖に押し潰されて最初から持てなかった。
今でも脳裏に焼き付いているのは、あの板壁に貼られていた無数のお札だ。封じられていたのは、穴なのか、それともその向こうにあるものなのか。あの日の葬式で亡くなった親戚の顔すら、もう朧げになってしまったのに、あの墨の掠れだけは鮮やかに浮かび上がる。
十四年経った今でも、あの穴のことを思い出す夜がある。夢の中でまたあの板壁を押し開けてしまう。光の向こうへ身を乗り出すと、今度は社の縁の下ではなく、冷たい水音が響く暗い川底へ落ちていく。沈んでいく最中に見上げると、あの穴の入り口が水面に揺らめいている。無数のお札が、ひらひらと剥がれ落ちて舞っている。
目を覚ましたあともしばらくは、水に押し潰されるような重さが胸に残る。やがて夜が明けると、夢だったと頭では理解するのに、身体が拒絶する。あれはただの夢ではない。まだ向こう側と繋がっている。そう確信してしまう。
なぜ自分があの日あの穴を見つけたのか。なぜ覗き込む気になったのか。理由はわからない。ただ一つ言えるのは、もう一度同じ場所を探す勇気はないということだ。あれが偶然だったのか、それとも何かに呼ばれたのかは知らない。ただ、もし誰かが同じ穴を見つけたなら――決して進んではならない。
あれは道ではなかった。戻れないものを呼び寄せる、口にすべきではない「口」だったのだ。
[出典:935 :あなたのうしろに名無しさんが……:03/03/21 17:43]